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本当の人生とは、すべての人と幸せに願う、天清寺

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令和4年度 9月の法話


9月の法話「象の本当の姿とは」

象の本当の姿とは

本日はお忙しい中、ご参拝頂き有難う御座います。
 
現存する最古の経典の一つに「ウダーナ」(自説経)が有ります。そこでは有名な象の喩話が説かれています。サーヴァッティーに多くの異教の沙門やバラモン、遍歴遊行者達がいて、世界は永遠に続くかそうでないか、命と肉体は同じものか別ものか、如来は死後も生存するかしないか等と互いに口論し、自分の見解こそが正しいのだと主張して譲らず、争い傷つけ合っていました。托鉢に出掛けた比丘達がこうした様子を見て帰りお釈迦様に理由を尋ねると、お釈迦様は次のような象の話を説いて聞かせたのです。
 
「その昔、サーヴァッティーに一人の王様がいて家来に国中の生まれつき目の不自由な人たちを集めさせ、象とはどのような動物なのかを理解させなさいと命じました。命じられた家来は目の不自由な人達を集め、一人一人象の所に連れて行き触れさせたのです。家来の報告を受けた王様が盲者達に象とは一体どのような動物だったかと質問しました。すると象の頭に触った者は瓶のようなものだと応え、耳に触った者は薄い蓑のようなものだと応え、牙に触った者は杭のように尖ったものだと応え、鼻に触った者は鋤のように細長いものだと応え、胴体に触った者は蔵のように大きなものだと応え、足に触った者は柱のようなものだと応え、尾に触ったものは箒(ほうき)のように細いものだと応えました。そして、互いに自分が主張する象の姿こそが正しいのだと譲らず、争って殴り合いの喧嘩を始めました」
 
この話を終えたお釈迦様は異教の遍歴者達が行っていた口論は自分が触った部位のみで象の姿を理解できたと判断して争っている盲者達の論争と同じで、真理を知らない者同士の争いに過ぎないのだと教え、自分の見解に執着する事無く、常に真理を求めて修行を重ね無用な議論をしてはいけないと諭したのです。
 
笑い話のようですが私達の日常生活でも有り得る事ではないでしょうか。常に自分の言動や行動を冷静に見つめ、時には人の話に耳を傾ける事も必要なのではないでしょうか。これから始まります皆様方の新しいひと月が自分の見解に執着する事無く、常に真理を求めて精進出来る日々となりますようご祈念申し上げます。本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和4年9月 天清寺






令和4年度 8月の法話


8月の法話「子を想う親の気持ち」

子を想う親の気持ち

本日は暑い中、ご参拝頂き有難う御座います。

先月は家庭菜園のナスやエンドウ、ズッキーニなどが食卓を飾ってくれました。無農薬で育てた新鮮な野菜を毎日頂く事が出来、この上ない贅沢を味わいましたが、同じ今を共に生きながらも世界には食事を与えてもらえず尊い命を絶っている子供達がいる事を想いますと胸が痛くなります。
 
ユニセフによりますと今や450万人の子供達が保健や栄養など生きる為に必要な最低限のニーズを満たしてもらえず危機にさらされていると言われています。人道支援活動は砂漠に水を撒くようなものだと言われているそうですが、子供達は大人の支援が無ければ生きる事が出来ない環境の中に置かれているのですから、何とかして上げたいと願わずにはいられません。
 
仏教には子供に対する親の気持ちをもとにした教えが幾つも有ります。現存する経典の中で最も古いものとされ、お釈迦様の教えを色濃く伝えていると言われていますスッタニパータには「母が己が独り子を命を懸けて護るように無量の慈しみの心を起こす」とあります。仏教は慈悲の宗教とも言われますが慈しみの心を母親の子に対する気持ちになぞらえて教えているのです。そして、こうした子を想う母の慈しみの気持ちを以て、一切の生きとし生けるものが幸福であれ、安穏であれ、安楽であれと願いなさいと教えているのです。
 
大乗仏教を代表する唯識思想と如来蔵思想とを統合した教えを説く経典とされています「楞伽経」では「仏は一切の生きとし生けるもの全てを子供のように想っている。肉を食べる事は自分の子供を食べるに等しいのであり、一切の肉を食してはならない」と教え、一切の肉食を禁じる根拠として子供を想う親の気持ちを例に掲げています。子を想う親の気持ちはいつの時代になろうとも決して変わる事の無い人類普遍の想いなのではないでしょうか。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が子を想う親の気持ちで満たされる日々となりますようご祈念申し上げます。

本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和4年8月 天清寺






令和4年度 7月の法話


7月の法話「最後の一日を生きる」

人生最後の一日を生きる

本日はご参拝頂き誠に有難う御座います。

先月は異常に暑い日が続き、とても六月とは思えませんでした。今月はどのような天気になるのでしょうか。体調が心配になりますがトマトやキューリー等の家庭菜園も気になります。
 
お釈迦様はこの世をいかに生きるべきかをお説きになられました。言葉を変えますと死に方に対する教えであり、いかに旅立つかをお説きになられたと言えるのではないでしょうか。私達はお釈迦様のように家族と別れ、社会との関係も断って出家する事は出来ませんが、悟りを開かれたお釈迦様に少しでも近づきたいと願うものです。その願いを叶える為の修行法とは一体何でしょうか。
 
在家の私達にとって誰もが出来、しかもお金や時間も必要のない修行法とは早いか遅いかの違いはあっても必ず訪れる自分の死を意識して日々を送る事だと感じます。仏教が教える諸行無常とは死を自覚する事によって始めて理解できるのではないでしょうか。死を正しく自覚できれば自分に与えられた唯一の時間は過去や未来にあるのではなく、今でありこの瞬間なのだと実感できるはずです。こうして諸行無常を体得でき自分の人生は今日が最後になるかも知れないと思う事が出来れば、腹を立てたり不平不満の気持ちは消え失せ、自分を支えてくれている有縁の方々に対して感謝の気持ちが湧いて来るのではないでしょうか。そして、独立自存のものなど何一つないと気付く事が出来、仏教で云う諸法無我の境地に至る事が出来るのです。残された時間が少ないと自覚できれば旅立つ前にお世話になった家族や有縁の方々、更には社会に対して一つでも多くの恩返しがしたいとの願いを抱くに違いありません。その願いを具体的に実践出来れば日々の幸福感や満足感が変り、生きがいを感じて充実した毎日を過ごす事が出来るでしょう。これこそお釈迦様がお説きになられた涅槃寂静の世界なのではないでしょうか。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が人生最後の一日を生きる毎日となりますようご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和4年7月 天清寺






令和4年度 6月の法話


6月の法話「娑婆の世界を生きる」

娑婆の世界を生きる

本日は天気の悪い中、ご参拝頂き誠に有難う御座います。

境内では色とりどりの牡丹が咲き誇り、まるで牡丹園のようですが、満開の美しい姿を堪能できたのは僅か数日でした。作家の林芙美子は「花の命は短くて苦しき事のみ多かりき」とうたっています。
 
仏教では生老病死など四苦八苦に象徴されますように、この世の人生は苦そのものだと説いています。この世を娑婆の世界と表現しますが、娑婆とはサンスクリット語でサハと言い忍耐を意味する言葉です。この世は苦の世界ゆえに忍ぶ事が求められ、直面する苦を一つ一つ乗り超えて行かなければならないと教えているのです。言い換えますと人生とは降り掛かる困難を克服して魂の向上を図る為の修行と言う事が出来ます。それでは修行させてくれる人とは一体誰なのでしょうか。私達は悪縁を断って良縁を結びたいと願うものです。苦労を掛ける人、心配を掛ける人、常に批判し辛く当たる人、意地悪をする人、邪魔をし足手まといになる人等々、悩みや苦しみを与える人は全て悪縁と想いがちですがそうでは有りません。私達に修行の機会を与えてくれている貴重な人なのです。そう気付く事が出来れば恨みや憎しみは消え、逆に感謝の気持ちが湧いて来ます。そして、与えられた修行を無駄にする事なく一日も早く乗り超えて、期待に応えたいとの思いになるのではないでしょうか。このように身に降り掛かる経験一つを取ってみても悪縁にするか良縁にするかは全て自分にあるのです。

人は誰でも健康で伴侶や子孫に恵まれ、経済的にも豊かで何一つ不自由のない生活を求めます。しかし、そうした環境の中では自分を向上させ本当の幸せを味わう事は出来ないのではないでしょうか。兼好法師は「強く猛き者を友とするなかれ」と述べています。弱い立場を経験した事のない人を友とするなと兼好法師は諭しています。人は辛く苦しい困難を経験する事によって強くなり、ものの見方や思いを変え、結果として行動を変えて行くのではないでしょうか。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が貴重なご縁を全て良縁にでき、感謝に満ちた豊かな日々となりますようご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和4年6月 天清寺







5月の法話「自力と他力を考える」

自力と他力を考える

本日は貴重なゴールデンウイークの中、ご参拝頂き有難う御座います。

庭の水仙やクロッカス、ムスカリ等が咲き誇り春爛漫の季節となりました。今年も自然の生命力に感動していますが、食糧庫に保存している大豆は春になっても芽を出しません。大豆は生きていないのでしょうか。そうでは有りません。芽を出したくてもその為の条件が整っていないからなのです。大豆を土に植え水を与えると数日もしない内に芽を出しますが、出た芽も温かい所や日の当たる所に置いてやらなければ成長を続ける事は出来ません。このように大豆が芽を出し根を張って成長を続け、花を咲かせて実を付けるためには土や肥料・水・日の光・温度など数多くの条件が必要なのです。こうした条件の事を仏教では縁と表現しています。どんなにすばらしい因があろうとも縁が無ければ結果は生まれないのです。
 
私達の人生も同じ事が言えるのではないでしょうか。幸せになりたい、豊かな暮らしがしたい、立身出世がしたい、健康でいたい等々、私達は多くの夢や希望を抱いています。そして、夢や希望を実現させるために自分で出来る精一杯の努力も惜しみません。しかし、それだけでは夢や希望を実現させる事は出来ません。実現のためには縁が必要なのです。人との出会いだったり、社会や会社の状況だったり、毎日の食生活だったりと、数え切れない程多くの縁がなければ実現しないのです。このように他力が整って始めて自力を発揮する事が出来るのであり、他力に支えられた自力を自覚する事が大切と感じます。しかし、あくまでも自力が基盤であり、自力が無ければ幾ら他力があっても結果は生まれません。やる気のない人に幾ら周りの人が力を貸そうとしても嚙み合う事はなく、前に進む事は出来ません。このようにこの世の全ては自力本願か他力本願かの二者択一の問題ではなく、自力と他力の整合が必要であり、それによって始めて果を生む事が出来るのです。お釈迦様はこうした真理を2500年前に縁起としてお説きになられました。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が多くの縁に支えられ、自力を思う存分発揮出来る日々となりますようご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和4年5月 天清寺







4月の法話「世界の平和を希求する」

世界の平和を希求する

本日はご参拝頂き誠に有難う御座います。4月は入学・進学・就職と若い人達に取って新たな生活が始まる夢と希望に満ちた月です。高齢者の私もテレビや新聞を見ていて毎年元気を頂いて来ましたが、今年は全く違う辛く悲しい想いに駆られています。この地球上で同じ時代を生きている善良なる人々や罪のない子供達が突然戦争に巻き込まれ命と自由を奪われているのです。ウクライナのニュースを見る度に胸が痛くなります。亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。お釈迦様も釈迦族の滅亡を目の当たりにされたと言われていますが、2千4百年経った今でも同じ事を繰り返している事が無念でなりません。
 
先日、本山で臨時の宗議会が開催されました。ウクライナの人々を苦しめている戦争が一刻も早く終結するよう願って、管長猊下ご導師のもと護摩を焚かせて頂きました。そして、宗議会では次のような平和を希求する声明を決議致しました。「如何なる戦争も認めません。許す事は有りません。世界中のあらゆる軍事衝突の即時終結と和平を求め、世界の平和と人類の平安を希求致します。人間の生きる尊厳を損う行為は国家たりと言えども行ってはなりません。私達大乗菩薩集団たる金峰山修験本宗はいかなる理由があろうとも、人命を軽視し武力で一方的に現状を変更しようとする暴力的な行為に抗議し、強く反対の意志を表します。今もなお世界各地で続くテロや武力紛争の現実があり、悲劇が繰り返されています。改めてあらゆる場での暴力の行使を非難すると共に、一刻も早い対話による解決を実現し、世界に平安が訪れるよう強く求めます」
 
戦争は領土や権力への執着により起こります。仏教では戒律の中でも不殺生戒を最も重んじ、人間は勿論のこと生きとし生けるものに対する殺生を固く禁じています。そして、あらゆる執着を離れて涅槃に至る事を説き、共に助け合い支え合って生きる事を教えています。一日も早くウクライナに平和が訪れ、罪なき人々が平穏な日々を取り戻せるよう心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和4年4月 天清寺







3月の法話「因と果を繋ぐ縁」

因と果を繋ぐ縁

本日は道の悪い中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。コロナや豪雪など暗いニュースが続く中、オリンピックで全身全霊を尽くして活躍する選手の姿に感動と勇気を頂きました。大会の進め方で残念な事も多々ありましたが、そんな中にあっても無心に頑張ってくれた選手の方々に称讃と感謝の気持ちを届けたいと思います。
 
お釈迦様は悟りを開かれ「これあるに縁ってかれあり。これ生ずるに縁ってかれ生ず。これなきに縁ってかれなし。これ滅するに縁ってかれ滅す」と縁起説を唱えられ、この世の存在は全て縁によって成り立っていると説かれました。
 
今回のオリンピックを観戦しながら縁起説の因縁について、改めて学ばせて頂きました。先ず最初にもととなる因があり、それに条件としての縁が加わって結果が生まれるのです。選手は少しでも距離を延ばしたい、早く滑りたいと努力を重ね練習に励んでいますが、それだけでは良い結果を生む事は出来ないのではないでしょうか。スキーやスケートを改良し、スーツの素材やデザインを考案して開発するなど、選手個人では出来ないメーカーの協力が必要になります。また、日々の練習を支えるコーチや周囲の人達の支援を始め、リンクの氷やコースの雪の状態など競技環境は勿論の事、当日の気象条件なども競技の結果に大きな影響を与えます。
 
こうして考えますと選手の実力と言う因と競技結果としての成績との間には、それこそ数えきれない程の縁・条件が存在している事に気付かされます。競技を終えた選手がインタビューに応えて、支えてくれた多くの方々に感謝したいと述べているのを聞き感動しました。
 
ただ勝つ事だけを目指して、しかも自分の力で勝ち取ろうと思っていると選手の身体的・精神的な負担は大きくなり、辛く苦しい練習や競技になってしまいます。日々の練習にお釈迦様が説かれた縁起の思想を取り込む事によって、感謝と歓びに満ちた練習や競技ができ、身体的・精神的な負担も軽くなって、結果として良い成績へと繋がる事もあるのではないでしょうか。テレビを見ていてこの事は私達の日常生活にも言える事だと感じました。

これから始まります新しいひと月がお互いにご縁を大切にし合う毎日となり、安楽で豊かな日々となりますよう精進を重ねて参りましょう。

本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和4年3月 天清寺







2月の法話「聞・思・修の教え」

聞・思・修の教え

本日は雪の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。
 
コロナウイルスの感染拡大が続き、感染者の数が毎日のように過去最大を更新しています。自分の身を守り人にうつさないようにする為には、外出を控え自分で出来る感染予防を徹底するしか有りません。お互いに助け合ってこの難局を乗り超えて行きましょう。
 
私達が信仰しています修験道では修行の実践を大切にしています。溺れている人を助ける為には当然の事ですが、先ず自分が泳げなければなりません。仏教では菩薩の修行として自利利他行の実践を説いています。先の例で申しますと泳ぎの力を身に付ける事が自利行になります。その身に付けた泳ぎの能力を活用して、溺れている人を救う行為が利他行と言う事が出来ます。こうした大乗仏教で欠く事の出来ない自利利他行の修行法について、瑜伽行唯識派では聞・思・修の三段階を経て達成すべきだと教えています。
 
聞とは聞く事で、先ず正しい教えを一つでも多く聞く事から始まるとしています。次に思とは幾ら正しい教えを聞いたとしても、それを鵜呑みにするだけでは身に付かないとして、一つ一つの教えを自分なりに思い、納得するまで考えなさいと教えています。そして、最後の修とは分かった理解できたで終わってしまっては本当に自分のものに出来たとは言えず、それを具体的な行動に移して実践し、体得しなければならないと教えています。
 
こうした教えはデジタル化が進み日常生活がますますバーチャル化する現代社会の中で、忘れてはいけない貴重な教えだと感じます。教えに従って修行を実践する為には先ずスタートとなる人の話に耳を傾ける必要が有りますが、正しい教えを聞く為には良き師・善き人と交わる事が求められます。その為には「類は友を呼ぶ」との諺が有りますように、先ず良き師・善き人とご縁を頂ける自分でなければならないのです。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が、良き師・善き人とのご縁で満たされる日々となりますよう心からご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和4年2月 天清寺







1月の法話「深い信仰の一年を目指す」

深い信仰の一年を目指す

 
本日は雪の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。今年こそ新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めが掛かり、皆様方に取りまして実り多い豊かな年となりますよう願いを込め護摩を焚かせて頂きました。
 
私達は魂を磨き霊的向上を図るため肉体を授けて頂きこの世で生活していますが、肉体を授かったが故に食欲や物欲・性欲、睡眠欲など様々な欲望が湧いて参ります。これらを自然的欲望と言うそうですが、自然的欲望は満たされるとそれ以上求める事は有りません。これに対し金銭欲や名誉欲・権威欲など奴隷的欲望と言われるものは際限がないだけでなく、一度自分のものにしますと今度は失いたくないとの不安にかられる事になります。こうした我欲・執着をどのように解決し悟りに至るかを説いているのが仏教なのです。
 
今日は修正会という事で護摩を焚かせて頂きました。ご存じのように護摩は火によって修法致しますが、その前にあらゆるものを水で清めます。火と水を合わせますと火水(かみ)となります。護摩を焚く事は火水(かみ)の世界に身をゆだねる事でもあります。人工的に火と水を合わせますとお湯になります。このお湯に身をゆだねるのが入浴です。入浴の習慣は日本人特有のものではないでしょうか。私達は入浴の前に手足など体をきれいに洗い、清潔にした体で湯船・浴槽に入ります。これはまさしく、この世で得た全てのものを捨て去り、心身を浄化して神仏に身をゆだねる行為そのものと言えるのではないでしょうか。自然の世界で火と水が融合して出来たのが温泉です。私達日本人は温泉に入ると、思わず「極楽、極楽!」と言ってしまいますが、この世で得た物を全て捨て去り、神仏に身をまかせ切った時の気持ちの良さを実感し、自然に出て来る言葉なのです。
 
これから始まります皆様方の新しい一年が毎日の入浴で学ぶ、深い信仰の日々となりますよう心からご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和4年1月 天清寺






令和3年度の法話


12月の法話「菩薩行を実践する」

菩薩行を実践する

本日は寒い中、ご参拝頂きまして有難う御座います。今回も先月に引き続き仏教唯識派のお話をさせて頂きます。
 
今から1600年程前にインドで活躍したアサンガはこの世の現象など全てに対する見方を依他起性・遍計所執性・円成実性の三性説で明らかにしました。三性説の中でも柱になっているのが依他起性で、全てのものは他を拠り所として成り立っているとの教えです。
 
ビッグバンに始まって宇宙や地球、そして、あらゆる生物などこの世の全てのものが気の遠くなるような長い時間を掛けて生起し、それが更に分化を繰り返して現在に至っているのです。ですからこうした過程を逆に辿って行くと全てのものが一つに集約される事になります。
 
今、こうして自分が生きていられると言う事は両親や先祖の数知れない命の継承が有り、水や空気・太陽など豊かな自然に囲まれ、更には衣食住に恵まれて来たからなのです。両親がいなければ生まれて来る事は出来ませんでしたし、どれ一つ欠けても今の自分は無いのです。こうした考えが出来ますと受けて来た恩恵の大きさ莫大さに気付き感謝の気持ちで一杯になります。そして、こうした恩恵に応える為には自分で出来る何かをしなければいけないとの思いに至ります。その思いを具体化し実践する事が大乗仏教の菩薩による利他行実践に他ならないと教えています。
 
このようにどこに意識を置いて生きるかによって私達の日々の生活は大きく変わります。先ず仏教を教える僧侶が変わり、そうした僧侶の姿を見て檀家の人々が変わると地域が変わり、社会が変わって日本を変える事が出来るのではないでしょうか。葬儀を行い月参りをする事は方便であり、仏教が目指す目的ではありません。1600年も昔にインドの仏教家はこうした貴重な生き方を説き示し、後世に伝えてくれたのです。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が依他起性の教えに基づく菩薩行実践の日々となりますようご祈念申し上げます。本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和3年12月 天清寺







11月の法話「一水四見の教え」

一水四見の教え

本日は寒い中、ご参拝頂きまして有難う御座います。

お釈迦様はこの世をいかに正しく生きるかを説かれましたが、正しい生き方をする為には、その前提として正しくものを見る必要があります。全てのものは見る者の心のあり方によって存在しているとの教えを説く仏教唯識派の経典「瑜伽師地論」には一水四見の教えが有ります。
 
それは同じ水でも天人や人間・魚・餓鬼など、水を見る有情の違いによって以下のように四通りに見えると言うのです。天人には水晶や宝石のように美しく輝いて見える。人間には生命を育む液体として見える。魚には住む家そのものに見える。餓鬼には血や膿に見える。
 
私達の人生も同じ事が言えるのではないでしょうか。生まれ育った環境や置かれた立場、抱いている感情や体験の違いなどにより、同じものを見ても人によって認識の仕方に違いが生じます。
 
水は飲料水に限らず入浴や調理・洗濯など私達の生活に欠く事の出来ないものですが、農業や工業などの生産活動に取っても必要不可欠となっています。しかし、水はこうした私達の生活に恵みを与えてくれるだけではなく、集中豪雨による河川の氾濫や洪水など災害の原因にもなっているのです。また、水は温度が下がると雪や氷になり、熱を加えると水蒸気となって蒸発します。このように水は環境の違いにより液体から固体になったり気体になったりと、その姿を大きく変えるのです。ですから先入観念や思い込み等に左右される事無く、常にその時々の姿をありのまま受け止め感じ取る事が大切になります。
 
人間関係も同様に相手をありのままに見つめ素直に受け止められるかどうかが問題となります。自分が思い描いているように相手も思い感じているとは限らないのです。もし、違いが生じた場合でも互いにその違いを認め合う事が出来れば、そこには信頼が生まれ寄り添い助け合って生きる事が出来ます。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月がご縁ある方々と互いに寄り添い温もりを感じ合える日々となりますようご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和3年11月 天清寺







10月の法話「正しい世界観・人生観を持つ」

正しい世界観・人生観を持つ

本日はご参拝頂き誠に有難う御座います。
家庭菜園にはたくさんの赤とんぼが飛び交い、秋の深まりを感じさせる季節となりました。
 
長く続いたコロナ感染の拡大もようやく全国的に減少の一途をたどるようになりました。このまま終息に向かい、二度と増加に転じる事がないよう願って護摩を焚かせて頂きました。
 
世界の諸国に比べ感染者の少ない日本ではありましたが、対策が後手後手に回り、国民からは強い不満と不安の声が上がりました。その原因は一体どこにあったのでしょうか。
 
原始仏教の経典とされています「自説経」(ウダーナ)には象のたとえ話が説かれています。ある王様が生まれつき目の不自由な人々を集めさせ、一人ずつ象に触れさせて、象とは一体どのような姿をしたものと感じたかを問い掛けたのです。すると象の頭に触った人は大きな瓶(かめ)のようなものだと応え、耳に触れた人は薄くて広いふるいのようなものだと応え、牙に触れた人は細く尖った杭のようなものだと応え、体に触れた人はあたかも蔵のようだと応え、足に触れた人は柱のようなものだと応え、尾の先に触れた人は箒(ほうき)のようなものだと応えました。
そして、互いに自分こそが正しい象の姿を表現していると固執し、他人の意見を誤りだと批判して争ったのです。
 
このたとえ話は全体を冷静に観察し真実の姿を確認できて始めて、正しい判断が出来る事を教えています。お釈迦様は「ある沙門やバラモン達はまさに自分の見解に執着して論争している」とこの話を例に取り挙げ、正しい世界観や人生観を持つ事の大切さを説き、更には無意味な議論をしてはいけないと何度も弟子達を諭したと言われています。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が、時には人の話に耳を傾けて真実をつかむ為の努力を惜しまず、価値ある人生を歩む事のできる日々となりますようご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和3年10月 天清寺







9月の法話「仏教の呼吸法」

仏教の呼吸法

本日はコロナ禍の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

今では外出の時にはマスクの着用が不可欠となり、暑い日は息苦しく感じている方も多いのではないでしょうか。そこで今日は呼吸についてお話させて頂きます。
 
お釈迦様は29歳の時に妻子や両親と別れ出家して、6年の間様々な苦行をされました。苦行の中には息を止めて耐えるような命懸けの修行も有りました。息を止める事によって体内に溜まった息が鼓膜を破って出た時、鋭利な刃物で脳天を突き刺されたような痛みを感じたと表現しています。こうした苦行の中で止息は間違いだと気づき発想を転換して、今度は呼吸に集中する修行を始めたのです。始めは呼気と吸気を共に長く続けていましたが、次第に呼気に集中する呼吸を完成させ瞑想の充実を図り悟りに至る事が出来たのです。
 
原始経典とされる「雑阿含経」では正しい呼吸こそ悟りへの道として、呼吸法の修行に励むと禅定が深くなり、慈悲の心を得て悟りに至ると教えています。仏教には「大安般守意経」と言う呼吸法に特化した経典が有ります。安般守意とは「心を込めた呼吸」と言う意味です。この経典には「出る息は長く心を込めよ。吸う息は短く。この呼吸を頼りに真理に気付け」とあり、呼吸により心身の浄化を図って悟りを開く事を教えています。
 
腹式呼吸をしますと胸部と腹部が同時に圧縮され、それにより腹部からは多量の静脈血が心臓に送られます。胸部からは大量の炭酸ガスが吐き出されるため同量の酸素が入って来ます。その結果、大量の血液と酸素が肺でドッキングして全身に循環する事になり、免疫力が高まりストレスの解消に繋がるのです。更には食事の量が減り、体質が変わる事によって自然と採食に導かれるのです。お釈迦様が一日一食で修行を続けられたのも呼吸法を実践していたからではないでしょうか。
 
私達は一日に約2万回の呼吸をしていますが、この呼吸を整える事によって心身を整え、生き方をも整える事が出来るのです。たかが呼吸と想いがちですが、されど呼吸なのです。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が呼吸を整える日々となり、悟りに近づける日々となりますようご祈念申し上げます。

本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和3年9月 天清寺






8月の法話「理想の祈りを求めて」

理想の祈りを求めて

本日は暑い中、ご参拝頂き誠に有難う御座います。
 
祈りと言うと宗教を連想される方も多いと思いますが、祈りは宗教家や信仰心の篤い人達が行う特別な行為ではありません。誰もが日常的に行っていながら、それを祈りとして自覚していないだけなのではないでしょうか。一般的に行われている祈りを突き詰めると願いや想いに辿り着きます。日常生活の中で何も思わず、無心の境地でいる時間は殆どありません。だとしますと私達は毎日、祈っている事になります。このように私達が毎日無意識のまま祈りとして抱いている思いによって、生活の質や健康、更には寿命までもが大きく変化すると言われています。
 
人を憎んだり怨んだりするネガティブな祈りはストレス物質と言われるコルチゾールの分泌を促し、脳の海馬を委縮させ認知症になりやすくすると言われています。反対に他人の幸せを願ったり、感謝の気持ちを抱く等ポジティブな祈りは脳内快感物質と言われるオキシトシンの分泌を促進し血糖値や血圧を下げ、ストレスを解消して免疫力をアップさせると言われています。
 
アメリカの大学の研究では65歳以上の4000人を調査した結果、毎日祈りを捧げている人の方が長生きしていたとされ、心臓病の患者さん393人を二つのグループに分け、治療は同じようにしながらも片方のグループにだけ回復の祈りをしたところ、祈ったグループには悪化する人が少なかったと報告しています。
 
私達はどうしても自分の願いを叶えようとする、欲望や執着心に基づく祈りをしがちですが、本当の祈りとはそうした自我の欲望や執着を離れ、神仏の御心と共鳴できる自分になれた時、初めて成立するものだと感じます。祈りの力が最も強く働くのは仏教で説く衆生救済の利他行の祈りと言われています。自我拡張の祈りを卒業して、自分の波動を高める祈り実現に向け、精進を重ねて参りましょう。そして、その祈りを具体的な行動に移し、善行の実践へと発展させましょう。そうする事で途が開け縁ある方々と共に、心豊かな毎日を送る事が出来るのではないでしょうか。これから始まります皆様方の新しいひと月がポジティブな祈りで満たされる日々となりますようご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和3年8月 天清寺






7月の法話「百丈壊海禅師に学ぶ」

百丈壊海禅師に学ぶ

本日は暑い中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。
 
少子化が進み労働力不足が深刻化する中で、企業は退職後も再雇用して同じ職場で働ける環境を作るようになって来ました。再雇用の期間も65歳から更に延びて70歳までとする動きも出て来ています。こうなりますと退職するタイミングを自覚する事が大切になります。その判断基準になるのが「停」です。今では「定年」と表現しますが、昔は「停年」と言っていました。
 
私が高校を卒業して電電公社に入社した当時は55歳が定年とされていましたが、実際にはその年以上の人が幾らでも働いていました。「停」にはとどこおるとか動かない等の意味が有り、当時は歳に関係なく自分にあてがわれた仕事が滞るようになった時、自ら申告して退職すれば良かったのです。当時と比較しますと定年は10年延びましたが、平均寿命も延びたのですから動ける間は歳に関係なく働き続け、若い人達への負担を軽減する努力を致しましょう。
 
中国は唐の時代に自給自足の生活を送っていた百丈壊海禅師は高齢になった師僧の体調を心配した弟子達が農道具を隠してしまったため、作務を諦めましたが、その日は食事も取らなかったと言います。これが有名な「一日作さざれば一日食らわず」なのです。徒食を嫌い地位や年齢を意識する事無く、常に先頭に立って作務に励んだ百丈壊海禅師こそ、立派な高僧と言えるのではないでしょうか。
 
原始経典とされる法句経には「頭髪が白くなったから長老なのではない。ただ歳を取っただけならば愚かな老人と言われる。真実に従い、徳あり、殺生せず、慎みあり、自ら制し、汚れを除いた賢い人が長老と呼ばれる」と有ります。

これから始まります皆様方の新しいひと月が長老と呼ばれるにふさわしい日々となりますようご祈念申し上げます。

本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和3年7月 天清寺






6月の法話「法の相続者となって」

法の相続者となって

本日はお忙しい中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。
 
阿含経にはお釈迦様が「比丘達よ、汝らは私の法の相続者となり、財の相続者になってはならない」と説いたと有ります。法とはお釈迦様の教えであり、法を守り伝える者になりなさいと弟子達に教えているのです。これを受けて長老の舎利弗は若い修行僧に対し、法の相続者となる為の具体的な方法として八正道を実践して浄き眼を開き、真の智慧を得て涅槃に至る事だと補足しています。お釈迦様は八正道を実践する為には堅固な信心と飽くなき精進が必要だとして、怠る事無く勤め励む不放逸が最も大切だと説いています。
 
そして、悟りを開いて涅槃に至る為には欲望を駆り立てる色・受・想・行・識の五蘊を離れる事が大切だとしました。繋がれている犬が同じ所をグルグルと歩き回るように、愚かな凡夫は五蘊に執着し悩み苦しんでいると説き、一切のものは因縁の結ぶがままに生起し、解けるがままに消滅する現実を知りなさいと教えています。
 
欲望を離れると言っても私利私欲の欲望を指しているのであり、自身の向上を図り世の為、人の為に尽くす努力は惜しんではならないと教えています。こうした教えを実践する事が大乗仏教で唱える「上求菩提 下化衆生」なのです。
 
お釈迦様は「大きな石を湖に投げ入れて浮かび上がれと幾ら願い祈っても、その願いや祈りを叶える事は出来ないように、生前に私利私欲に執着して悪業を重ねた者が天界に赴く道理はない」とし、現世での生き方で死後の世界が決まると教えています。お釈迦様は王子の地位を捨て、妻子と別れて修行を重ね、その中で得た貴重な悟りの極意を惜しむ事無く求めに応じ説いて聞かせたのです。
 
このように仏教の原点は実践実修に基づく自力本願の教えなのです。ですから仏教徒である為にはお経を唱えるだけでなく、その中で説かれる尊い教えを日々の生活の中で実践できるよう努力を重ねて行かなければなりません。
 
「法句経」には「意味深き経文を幾たび口に誦すとも、身を以て行わなければ沙門とは呼ばず」と有ります。
 
これから始まります新しいひと月がお釈迦様の教えを実践できる日々となりますようお互いに支え合って精進を重ねて参りましょう。
 
本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和3年6月 天清寺






5月の法話 「晴耕雨読を目指す」

晴耕雨読を目指す

本日は貴重な連休の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。
 
変異株の出現により新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めが掛からず、関西や首都圏を中心に感染者が増え続けています。残念ながら国内での死者が遂に1万人を超えてしまいました。亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 
PCR検査やワクチン接種など感染防止に有効な手段が有るにもかかわらず活用に全力を挙げず、経済活動との両立に執着する余り、結果的に解決を先延ばしにして国中を疲弊させてしまっているように思え残念でなりません。
 
お釈迦様の教えを色濃く伝えていると言われる阿含経では「過去を追うな。未来を願うな。過去は過ぎ去ったものであり、未来は今だ至っていない。現在の状況を良く観察して明らかに見よ。そして、今なすべき事を努力してなせ」と教えています。今、人類が一丸となって取り組まなければならない事は唯一つ、新型コロナウイルスの感染拡大を解消する事ではないでしょうか。晴れた日には田畑を耕し、雨の日は家で読書にいそしむ悠々自適の生活を「晴耕雨読」と表現しますが、言い方を変えますと与えられた環境や条件に逆らう事無く、それにふさわしい生活をする事の大切さを教えてくれているように感じます。雨降りや嵐の日に外仕事をしても良い仕事は出来ませんし、能率も上がりません。そして、何より辛く苦しい仕事になってしまいます。
 
今を大切に生きるという事は時を知って行動する事でも有ります。春には春の仕事をし、秋には秋の仕事に精進する事が大切なのです。秋にどんなに良い種を蒔いても、芽を出した作物は冬になると枯れてしまい収穫する事は出来ません。人生も同じ事のように思えます。与えられた縁を大切にし、報われる努力を重ねる事によって、実り多い生涯としたいものです。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月がコロナ禍を逆手に取って新たな生活スタイルを創出し、充実した日々となりますようご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和3年5月 天清寺






4月の法話 「心の富を求めて」

心の富を求めて

本日はお忙しい中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

今年も早いもので4月に成りました。4月は入学や進学、入社や転勤など新たな出発の月でも有ります。そこで今日はお釈迦様が悟りを開かれて最初に説法された四諦八正道の教えについてお話させて頂きます。
 
四諦とは苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つの真理の事です。人生は苦であるが苦諦、その苦には原因が有るが集諦、その原因を解消すると涅槃に至る事が出来るが滅諦、原因解消とは中道であり具体的には八正道の実践だとするのが道諦です。お釈迦様は私達が輪廻転生を繰り返す中で飲んだ母乳の量やその間に経験した愛する人との別れに際し流した涙の量は四つの海の海水よりも多いと説き、私達の輪廻転生がいかに永く繰り返されているかを指摘しています。そして、こうした輪廻転生はその原因を悟らない限りいつまでも繰り返され、悩みや苦しみから逃れる事は出来ないとして、解消する為には四諦について学びなさいと教えています。
 
仏教では生老病死に象徴されるように人生は苦であると説いています。そして、苦の原因を執着心や欲望だとしていますが、絶対的な苦が存在する訳では有りません。苦を生み出しているのは私達一人一人の思いであり、心の問題だと教えているのです。私達はいつまでも若くありたい。常に健康でありたい。出来れば死にたくない等と現状の自分に執着し、それが思うようにならない為、悩み苦しんで地獄の日々を送っているのです。しかし、考え方を変えると私達は非常に恵まれた中で生活させて頂いているのです。3分も空気が無くなれば私達は生きている事が出来ません。10日間も水を飲めなければ生きられないのです。でも私達は命を支えてくれている空気や水に感謝しているでしょうか。同様に自分の生活を支えてくれている社会や自然に対し感謝の気持ちを抱いているでしょうか。こうした自分を冷静に見つめ、発想を変える事で悩みや苦しみを歓びや感謝に変える事が出来ます。心を不自由にしているのは自分自身なのです。物や現象に執着すればする程、心は不自由になります。物質的な富は使えば使う程、減って行きますが、心の富は使えば使う程、増大するのです。社会生活を営む私達は世の為人の為に努めを果たす事でバランスを取り充実した日々を送る事ができるのです。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が心の富を求める日々となりますよう心からご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和3年4月 天清寺






3月の法話 「八正道を目指して」

八正道を目指して

本日は雪の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。
 
今年も早いもので3月に入り、お彼岸の季節になりました。「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、有難い事にコロナ禍の中にあっても、例年のように春の訪れを身近に感じられる日々となりました。
 
今日は仏教の教えの中でもお釈迦様が悟りを開かれて最初に説かれた四諦八正道の内、苦を滅して涅槃に至るための方法・手段として説かれました八正道についてお話させて頂きます。
 
八正道とは欲望を追求する快楽生活や命を削るような苦行生活など、苦楽の両極端に陥る生活を離れ、中道を守って生活する事によって悟りに至る道とされています。具体的には正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つの実践徳目の事ですが、正見とは正しい見解やものの見方を指し、仏教の教えを知る智慧です。正思は貪りや怒り・愚痴などから離れる為の思いや決意です。正語は常に愛に満ちた、慈しみに裏打ちされた思いやりのある言葉を発する事です。正業は正しい行為・行動ですが、具体的には人々を喜ばせ、世の中を明るくする行動と言えます。正命は正しい生活を営む事とされていますが、簡単に言いますと人間らしい、親らしい、先生らしい等、自分の置かれた立場にふさわしい生き方や生活を守る事ではないでしょうか。以上の正語・正業・正命は身口意(行動・言動・意志)による善行・陰徳積みの実践と言う事が出来ます。正精進は正しい努力と言われていますが、時間を無駄にせず怠る事無く常に勤め励む事です。正念は仏教の教えを忘れず、常に記憶に留めて心に念ずる事です。最後の正定はこれまでの七つの項目を実践する為に常に冷静に自分を見つめ、心を乱さず自己研鑽を重ねる事です。宗教的な言い方をしますと心身一如を求めて究極的には霊魂と肉体との調和を図る事ではないでしょうか。
 
ややもすると私達凡夫は自己中心的な生活をしがちですが、愛ひとつ取りましても「求める愛」から「与える愛」「活かす愛」「許す愛」へと高めて行きたいものです。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が春を迎えるにふさわしい、温かい愛に満たされた毎日になりますよう心からご祈念申し上げます。 
 
本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和3年3月 天清寺






2月の法話 「三句の法門を実践する」

三句の法門を実践する

本日は寒い中、ご参拝頂き誠に有難う御座います。
 
世界のコロナウイルス感染者が1億人を超え、人類は過去に経験した事のない試練に直面しています。一日も早い終息を願って護摩を焚かせて頂きました。
 
高度情報化社会と言われる今日、テレビやラジオで流れて来る情報と自分の日常生活に欠く事の出来ない情報とに大きな乖離が生じていると感じます。アメリカやヨーロッパで起きた情報が瞬時に報道される反面、私達の生活に深く関わる隣近所や地域で起こっている事が分らなくなっているのです。
 
情報には生きる為に必要最小限の情報や生活を豊かで潤いのあるものにする情報、更には自己を高め向上させる情報など様々なものが有ると思いますが、情報化社会の進展に伴って、情報の入手源が人から人への口伝からテレビやパソコンによるネットワークなどに変化した事により、グローバル化が飛躍的に進んだ一方で、生活に密着したローカルな情報を得る手段が途絶えてしまったように感じます。
 
コロナ禍を体験した事で私達の生活は今後、大きく変化して行くのではないでしょうか。今回のコロナ禍を通じ私達は自分の努力だけで生きていたのではなく、多くの人々に支えられ生かされていたことに気付かされました。また、当たり前と思っていた事が実は大変有難い事だったんだと気付かされました。そして、社会とその構成員の一人である自分との間に存在する支え合う関係が、バランスの取れたものだったのかどうかを自覚させられる、貴重な機会を与えられました。人類はこの貴重な体験を活かして今後、生活の質や内容を大きく変えて行く事でしょう。
 
仏教では悟りを求める菩提心を種として、生きとし生けるものに対する慈悲の心を根として育てる事により、方便としての花が咲き無常の仏果を得る事が出来ると三句の法門を説いています。コロナ禍を機に日本の仏教徒一人一人がこうした教えを実践出来れば、日本はより豊かな愛に満ちた国になれるのではないでしょうか。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が三句の法門を実践に移す日々となりますようご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和3年2月 天清寺






1月の法話 「生命を守る」

生命を守る

新年明けましておめでとう御座います。

コロナの感染拡大が続いていますので、いつもの正月とは違い家族揃って新年を迎える事が出来ず、寂しい想いをされている方も多いのではないでしょうか。一日も早く自由に外出でき、以前のように平穏な生活に戻れるよう願って護摩を焚かせて頂きました。
 
日本では「10月ひと月で自殺した人がコロナの感染で亡くなった人の累計を超えた」とアメリカのCBSニュースは大きく報道しました。これまで日本の自殺者は減る傾向に有りましたが、コロナの感染により昨年7月から増加に転じ、アメリカで取り上げられた10月には例年より600人も多くなりました。しかも自殺率が低いとされて来た女性の数が全体の3割を占め、80%以上の増加を示しています。育児を担ってきた女性がコロナ禍により職場では雇い止めや失業の矢面に立たされ、家庭ではテレワークに伴うDV被害などを受けたのが主な原因と言われています。
 
仏教では殺生を禁じ不殺生戒を説いています。不殺生とは自分の命も含め、生きとし生けるものの命を守り、危害を加えないとの誓願です。それは私達の命が遠い祖先から営々と継承されて来た命であり、また、子供や孫へと引き継がれて行く命でも有るからです。
 
仏教では更に生きているのではなく、多くのものや人々によって支えられ生かされている自分を自覚する事の大切さを説いています。ややもすると私達は取り巻く自然や社会を自分の都合に合わせ利用するだけになりがちですが、自然や社会を支える為に存在している自分でもあるのです。こうした考えに基づいて生活出来れば、孤立する事無く互いに助け合って生きる事が出来るのではないでしょうか。今回のコロナ禍は私達に経済成長を最優先し、それをもって豊かさを判断しようとする事の誤りを指摘してくれました。
 
私は炭鉱の長屋で生まれ育ちましたが、給料日が近くなると隣近所の叔母さん達が互いに米や味噌・醤油などを貸し借りしているのを良く見掛けました。また、お祝い事が有って赤飯を炊いたり餅をついたりすると必ず隣近所に持参したものです。今から思うと貧しい生活でしたが、長屋には互いに支え合う肉親同様の付き合いが存在していました。
 
これから始まります皆様方の新しい一年がコロナ禍で学んだ教訓を活かし、互いに寄り添って命を守り合う日々となりますようご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和3年1月 天清寺




 
 しき
6月の境内

天 清 寺

〒038-0031
青森県青森市三内丸山326-5

TEL 011-764-2328.