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本当の人生とは、すべての人と幸せに願う、天清寺

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令和5年度の法話



6月の法話「仏教の信者として生きる」

仏教の信者として生きる

本日はお忙しい中、ご参拝頂き有難う御座います。早いもので今年も半年が過ぎようとしています。一日一日を大切に生きたいと誰しも願っていますが、具体的にはどのように生きれば良いのでしょうか。
 
仏教は人の生き方を説く宗教とも言えますが、パーリ経典の相応部では仏教の信者としての生き方を具体的に教えています。そこでは仏教の信者とは戒律を守り、信仰心あつく、布施を行い、正しい智慧を持っている者のことだと説いています。
 
そして、具体的には守るべき戒律とは在家信者に課せられた不殺生などの五戒を指し、信仰心とは仏教の教えを信じることであり、布施とは貪りを離れ慈悲の心で必要としている人に必要なものを施すことであり、正しい智慧とは縁起の道理を理解し、諸行無常を悟ることだと教えています。
 
このように仏教の信者であるものは、まず信を確立して、それに基づき戒律を守り、布施を実践して悟りに導く智慧を体得しなければならないとしています。このように全ての根源となる信を最も大切なものとし、信には懺悔と随喜と祈願の三つが包含されているとしています。具体的には常に自分を省みて犯した罪や汚れを自覚し反省すること。また、他者の幸せを常に願い、人の幸せを自分の幸せとして受け止めて共に喜び、仏のように正しく生きたいとの願いを常に抱いて行動することだと説いています。
 
こうした仏を信じ正しく生きようとする心を仏性と呼び、誰にも備わっているにもかかわらず煩悩によって覆い隠されているため、仏の心を発揮できず悩み苦しんでいるのだと教えています。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が煩悩を解消して、授かった仏性を存分に発揮でき、極楽浄土につながる毎日となりますようご祈念申し上げます。本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和5年6月 天清寺







5月の法話「全ては心が作る」

全ては心が作る

本日はゴールデンウイークの中、ご参拝頂き有難う御座います。今年は1日と2日を休みますと9連休になりますので、ご家族お揃いで海外旅行にお出掛けになられた方も多いのではないでしょうか。
 
華厳宗の根本経典とされます「華厳経」には「牛は水を飲んで乳を成し、蛇は水を飲んで毒を成す」とあります。この教えは飲んだ水そのものに問題があるのではなく、水をどのように扱うかによって出来上がったものが全く反対の働きをしてしまう程、大きく変化する事を私達に教えてくれています。
 
牛は水を飲み、それを子牛の命を守り元気に育てるための栄養ある乳にして出し、蛇は水を飲んでもそれを敵対するものの命を奪うための毒にして出すのです。同じ水を飲んでいながら、どうして結果にこのような違いが出来てしまうのでしょうか。
 
現存する最古の経典とされます「ダンマパダ」には「物事は心に基づき、心を主とし、心に依って作り出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば福楽がその人につき従う。車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように」とあり、言動や行動はどのような思いで行うかによって、その結果が決まってしまうと説いています。
 
乳を出す牛には親としての子牛への愛情があり、毒を出す蛇には相手を征服しようとする敵愾心があります。この心の違いが水によって作り出される液体の質や価値を大きく変える原因になっているのです。私達の日常生活でも同じ事が言えるのではないでしょうか。毎日の生活で体験する一つ一つの出来事をどのような心で受け止め対処するかによって、生活の質や価値そのものが大きく変ってしまうように感じます。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が牛のように自分に授かった仏の心(仏性)を存分に活かして、有縁の人々を喜ばせ幸せに出来る徳積みの日々となりますよう御祈念申し上げます。本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。.

令和5年5月 天清寺







4月の法話「三力の統合を願う」

三力の統合を願う

本日は貴重な週末、ご参拝頂き有難う御座います。4月は卒業や就職・転勤など一年の中でも新たな出発を迎える門出の月と言えます。門出に際し志も新たに様々な願いを抱かれた方も多いのではないでしょうか。
 
密教は衆生救済の実践を目指す宗教ですが、その中心的な思想を示す重要な経典の一つに「大日経」が有ります。「大日経」の悉地出現品では衆生救済を目指し、諸願を成就させようとするならば三種の力を統合出来るよう念じなさいと教え、三力偈の読誦を掲げています。密教の戒律とも言われる三昧耶戒を遵守する事はこの三力偈に象徴される三種の力の統合を図って、悩み苦しむ衆生を救済する為の力を創出し身に付ける為の修行の実践と言えるのではないでしょうか。
 
三力偈とは「以我功徳力 如来加持力 及以法界力」の三つの力を掲げる非常に短い偈文です。この三力偈では心願を成就させる為には先ず本人の努力や徳分が必要であり、そうした衆生救済を目指す清浄なる願いに如来などの見えない加護の力や様々な縁とも言うべき法界の力が加わって実現出来るのであり、そのバランスと統合された力が大切だと教えているのです。このように三力偈では自力でも他力でも無いバランスの取れた総合的な力を発揮できて始めて心願の成就が実現するのだと教えています。
 
二番目の「如来加持力」や三番目の「及以法界力」をどのように捉えるかによって修行の仕方や進むべき道に違いが生じる事になります。行者の末期は惨めだと良く言われますが三力偈は霊感や自分の法力を過信して自ら身を滅ぼす事のないよう、衆生救済に際して最も大切な心構えを教えてくれているように思われます。
 
とは言っても衆生を救済する力の根源となる最も大切なものは自らの身口意による善行であり、家族のため地域や社会のためにと自分の事をさておき皆の幸せを願い、困っている人の救済を目指そうとする菩提心そのものではないでしょうか。これから始まります皆様方の新しいひと月が三力偈に象徴されます三種の力を菩提心により統合でき、諸願を成就できる日々となりますようご祈念申し上げます。本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和5年4月 天清寺







3月の法話「彼岸を機に自分を見つめる」

彼岸を機に自分を見つめる

本日は雪の中ご参拝頂き有難う御座います。
早いもので今年もお彼岸を迎える季節となりました。お彼岸の習慣は日本独自の仏事でインドや中国には御座いません。日本では浄土信仰が広がる中で太陽が真東から昇り真西に沈む春分の日と秋分の日を西方極楽浄土に往生したご先祖を最も身近に感じる日として彼岸会を執り行う習慣が生まれました。

古くから日本には亡くなった人の霊魂は肉体を離れて神々のすむ近くの山にのぼり祖霊となって、里村で暮らす子孫を見守り様々な恩恵をもたらしてくれるとする祖霊信仰が有りました。こうした習慣が仏教の浄土信仰と融合してお彼岸の供養と言う日本独自の仏事を生み出したのです。

お釈迦様が存命だった頃の話ですが、毎日忙しく働き続けて満足な信仰も出来ずに若くして亡くなった息子が天国に生まれる事が出来、安楽に過ごせるようになるでしょうかと在家信者の母親が尋ねたのに対し、お釈迦様は常に東へ東へと伸びて成長を続けた大木はどんな切り方をしても東に倒れる。それと同じように正しい生き方をしていた人は必ず天界に赴き良い所におさまる事が出来ると応え母親を安心させたと言うのです。

また、他人を傷つけたり物を盗むなど罪深い生き方をしていた人の例では湖に大きな石を投げ入れて「石よ浮かび上がれ」と幾ら願い祈ったところで石が浮かび上がらないように、天界に生まれる事はなく永い間苦しむ事になると述べ、生前の生き方がいかに大切であり、それによって死後の世界が決まってしまうのだと説かれました。

私達がこうして毎日元気に過ごせるのは両親を始め多くのご先祖のお陰なのです。お彼岸を機に両親やご先祖に感謝の祈りを捧げましょう。そして、自分の生き方を冷静に見つめ、死後は天界に生まれる事が出来るとお釈迦様に言って頂けるように日々精進を重ねて参りましょう。

本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和5年3月 天清寺







2月の法話「六方を拝して道を守る」

六方を拝して道を守る

本日は雪の中、ご参拝頂き有難う御座います。今年こそ仏教徒として教えに従った生活をしたいものだと願っていますが、在家信者の生活規範を説いたとされる六方礼経では以下のように教えています。

お釈迦様が托鉢に出掛けていると沐浴して衣服を整え東西南北と天地の六方を礼拝している青年に出会いました。お釈迦様が何故六方を礼拝しているのか尋ねると青年は家が栄えるように亡き父の教えを守って礼拝していると応えました。そこでお釈迦様は父親が六方を礼拝せよと教えた本当の意味を青年に説いて聞かせたのです。
 
東とは親子、西は夫婦、南は師弟、北は友人、地は使用人、天は沙門やバラモンの道を示しているのであり、それぞれの道を正しく歩み円滑な人間関係を維持して保つならば、自ずと家は栄え家系は発展するのだと教えました。そして、こうした六つの道を守る事が出来て始めて、亡き父が教えてくれた六方拝を実践した事になるのだと諭したのです。具体的には親子関係では子供は親に対して年老いたら養い、家業を継ぎ家督を相続して先祖を供養しなければならない。これに対し親は子供を悪から遠ざけ善を積ませて、適齢期になれば結婚させ時機を見て家督を継がせなければならない。夫婦関係では夫は妻に対し尊敬の念を抱き軽蔑したり浮気する事無く、家事を任せて時には装飾品を買って与えなければならない。これに対し妻は親族の調和を図って貞操を守り、財を浪費せず家事に精を出さなければならない。師弟関係では弟子は師を礼拝して迎え熱心に教えを聞き、師を信じて敬わなければならない。これに対し師は親切に教え導き弟子を褒めたたえて常に守護しなければならない。友人関係では友を欺く事無く相手が逆境に陥った時には相談に乗り、共に支え合って守ってやらなければならない。雇用関係では雇用主は使用人に対し能力に応じた仕事を与えて食料や給料を支給し、病気の時には看病を怠らず疲れの状況を見て休みを与えなければならない。これに対し使用人は雇用主より早く起き遅く寝て仕事に励み、主人を批判せず称讃しなければならない。沙門やバラモンとの関係では身口意の三業を整えて迎え、教えを守り財物を施与しなければならない。これに対し沙門やバラモンは道を説いて聞かせ、善を積ませて安楽な境地に導かなければならない。
 
以上のようにお釈迦様は六方を礼拝するとは単に災難を逃れるために行うのではなく、人間としての道を守って生活する事により自分を取り巻く環境が整い、その結果として災いが遠のき豊かで平穏な人生を送る事が出来るようになるのだと諭したのです。このように仏教とは苦しみ多きこの世の人生をいかに人間らしく正しく生きるかを教えているのです。このような尊い教えにご縁を頂けた事に感謝しましょう。そして、その教えを毎日の生活の中で一つでも多く実践できるよう精進を重ねて参りましょう。

本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和5年2月 天清寺







1月の法話「水の如く徳行を積む」

本日は雪の中ご参拝頂き有難う御座います。

皆様方の今年一年が実り多い豊かな年になりますように祈りを込めまして護摩を焚かせて頂きました。私も今年こそ初心に立ち返りお釈迦様の教えや菩薩行の基本となる自利利他行の実践に精進を重ねて参りたいと願っています。
 
仏教の教えを守り功徳を積む仏道修行に励むとは水のように生きる事ではないでしょうか。お釈迦様は怠る事無く勤め励めと申され、「自灯明 法灯明」として真理に従いつつも自分を拠り所として生きる事をお説きになられました。大乗仏教では菩薩行の根幹をなすものとして自利利他行を掲げ、己の力を養いその力を以て悩み苦しむ衆生の救済を目指しなさいと教えています。
 
水は自ら下へ下へと低い所を求めて精進を続け、常にへり下って高い所から見下すような事はしません。また、水は丸い器に入ると丸くなり、四角い器に入ると四角くなってどんな形の器にも従い争う事をしませんが、決して自分の性質を失う事がありません。そして時には周囲の環境に従い液体から気体や固体へと大きくその姿を変えますが自分の本性を失う事はありません。更に水は生きとし生けるものに対し生命の維持に欠く事の出来ない恵みを与えていながら恩をきせたり自慢したりしません。
 
老子は「上善は水の如し」と述べ人間にとって最善の生き方とは水のように振る舞う事だと表現しましたが、まさにその通りだと痛感致します。
 
これから始まります新しい一年が水のように振る舞う事が出来る日々となり、功徳を積む仏道修行実践の毎日となりますよう互いに精進を重ねて参りましょう。本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和5年1月 天清寺







令和4年度の法話


12月の法話「縁の大切さ有難さ」

縁の大切さ有難さ

本日は寒い中、ご参拝頂き有難う御座います。新聞やテレビの報道によりますと先月、世界の人口が80億人を超え、この12年間で10億人増えたそうです。今の世界情勢を考えますと縁あってこの世に生まれて来られた全ての方々が幸せな毎日を送る事が出来ますようにと願わずにはいられません。
 
仏教の根本教理の一つに縁起説が有ります。縁起説とはこの世のものは全て元になる原因に諸条件となる縁が加わって、その結果として成り立っているのであり、独立自存のものは何一つないとする教えです。こうして全てのものが縁によって生じ、縁によって滅する事から常住不変のものなど存在しないとする無常観へと繋がるのです。
 
縁にもいろいろ有り自分の努力で解決出来るものも有れば、自分ではどうする事も出来ないものも有ります。ですから私達に出来る事は授かったその縁を謙虚に受け止め、例えどんなに悪い原因があろうともそれを良い結果に繋げられるように努力し精進を重ねる以外にないのです。
 
毎日の生活を冷静に見つめ、多くの縁によって生かされている自分を知る事が出来れば「他者があって始めて自分がある」との真理に気付き実感できるでしょうし、自ずと他者への深い感謝の念が湧き起こるでしょう。このように日常生活での気持ちを切り替えるだけで極楽浄土に往生せずとも、この世で生きている今日この瞬間から同様の幸せと心の平穏を自分のものに出来るのではないでしょうか。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が縁の大切さや有難さを実感できる日々となり、感謝の毎日となりますようご祈念申し上げます。本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和4年12月 天清寺







11月の法話「不殺生戒の重み」

本日は寒い中ご参拝頂き有難う御座います。高い山では雪が降り始め、朝晩はストーブをつけなければならない季節になりましたが、今年は灯油代や電気代が高くなっていますので、どんな冬になるのか心配になります。
 
仏教は心の修行、特に心の浄化を根底にした教えです。先ず戒めを守って行動を整え、次に禅定により精神の統一を図って心を整えます。こうして身口意を整える事によって正しい智慧を得て悟りに至る事が出来ると教えています。これを戒定慧の三学と言いますが、悟りに至る為の重要な戒めとして出家・在家を問わず不殺生戒の遵守を掲げています。不殺生戒とは人間の命だけでなく、生きとし生けるものの命を害さない徹底した非暴力を目指す戒めです。殺生をせずに生きる事は出来ませんが、殺生を最小限に抑制する事で自分の命と同様に生きとし生けるものの命をも尊重して生活できると仏教では教えているのです。
 
更には毎日の食事によって与えられた生きる力を自分の進歩向上と世の為・人の為に使わせて頂き、命を頂いた動植物の恩に報いるよう積極的に報恩感謝の行動を取る事をも求めているのです。
 
仏教徒の誰もがこうした仏教の教えを忠実に守って生きる事が出来れば世界の平和が守られるだけでなく、危惧される将来の食糧危機にも対応出来るのではないでしょうか。一人一人が少欲知足を守り、毎日の食事を腹八分に留めて食べ残しを作らない努力をする事で心身ともに健康を保ちつつ、フードロスを減らす事も出来るのではないでしょうか。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が生きとし生けるものの命を尊ぶ日々となりますようご祈念申し上げます。本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和4年11月 天清寺







10月の法話「人生の価値は行為で決まる」

人の価値は行為で決まる

本日は貴重な週末ご参拝頂き有難う御座います。安部元首相の銃撃事件以来、新聞やテレビでは政治と宗教との関係について毎日のように報道を繰り返し、宗教の真価を問い掛けています。ニュースを見ていて他人事とは思えず宗教家としての責任の重さを痛感しています。
 
私達が信仰しています仏教は人の道を説く宗教そのものであり、四苦八苦に象徴されますように、苦労の多い人生をいかに正しく生きるかを教え導く宗教です。お釈迦様の教えを色濃く残しているとされる「雑阿含経」では人は生まれによって賤しくなったり高貴になったりするのでなく、なした行為によって賤しくもなり高貴にもなるのだと教えています。当時の古代インドではカースト制度が敷かれ、生まれによって社会的地位や存在価値そのものが決められていました。そのような厳しい身分制度の中でお釈迦様は王族だった身分を捨て修行に身を投じて苦行を重ねた結果、人間の価値は言動や行動で決まるのであり、それも行為の根底にある想い(身口意の三業)によるのだと悟りました。
 
そして、人間の取るべき行為とは先ず自分を正しく整え、自分で実行出来てから他人を教え導くべきだと教えています。悪い事や自分の為にならない事は直ぐに出来ても、自分の為になる事や善い事は成し難いとして、自分を制する事ほど難しいものは無いと説いています(ダンマパダ)。「雑阿含経」では賤しき者の具体例として、よこしまな見解を抱き偽りの善を行う者、生きとし生けるものを平気で害する慈悲心の無い者、自分は豊かな暮らしをしていながら年老いた両親を養わない者などを挙げています。まさに2500年経った今でも誰もが納得できる教えであり、人種の違いを超えて全ての人間が守り実践すべき事のように感じます。
 
これから始まります新しいひと月がお釈迦様に賤しき者と指摘される事のない日々となりますよう互いに精進を重ねて参りましょう。

本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和4年10月 天清寺







9月の法話「象の本当の姿とは」

象の本当の姿とは

本日はお忙しい中、ご参拝頂き有難う御座います。
 
現存する最古の経典の一つに「ウダーナ」(自説経)が有ります。そこでは有名な象の喩話が説かれています。サーヴァッティーに多くの異教の沙門やバラモン、遍歴遊行者達がいて、世界は永遠に続くかそうでないか、命と肉体は同じものか別ものか、如来は死後も生存するかしないか等と互いに口論し、自分の見解こそが正しいのだと主張して譲らず、争い傷つけ合っていました。托鉢に出掛けた比丘達がこうした様子を見て帰りお釈迦様に理由を尋ねると、お釈迦様は次のような象の話を説いて聞かせたのです。
 
「その昔、サーヴァッティーに一人の王様がいて家来に国中の生まれつき目の不自由な人たちを集めさせ、象とはどのような動物なのかを理解させなさいと命じました。命じられた家来は目の不自由な人達を集め、一人一人象の所に連れて行き触れさせたのです。家来の報告を受けた王様が盲者達に象とは一体どのような動物だったかと質問しました。すると象の頭に触った者は瓶のようなものだと応え、耳に触った者は薄い蓑のようなものだと応え、牙に触った者は杭のように尖ったものだと応え、鼻に触った者は鋤のように細長いものだと応え、胴体に触った者は蔵のように大きなものだと応え、足に触った者は柱のようなものだと応え、尾に触ったものは箒(ほうき)のように細いものだと応えました。そして、互いに自分が主張する象の姿こそが正しいのだと譲らず、争って殴り合いの喧嘩を始めました」
 
この話を終えたお釈迦様は異教の遍歴者達が行っていた口論は自分が触った部位のみで象の姿を理解できたと判断して争っている盲者達の論争と同じで、真理を知らない者同士の争いに過ぎないのだと教え、自分の見解に執着する事無く、常に真理を求めて修行を重ね無用な議論をしてはいけないと諭したのです。
 
笑い話のようですが私達の日常生活でも有り得る事ではないでしょうか。常に自分の言動や行動を冷静に見つめ、時には人の話に耳を傾ける事も必要なのではないでしょうか。これから始まります皆様方の新しいひと月が自分の見解に執着する事無く、常に真理を求めて精進出来る日々となりますようご祈念申し上げます。本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和4年9月 天清寺







8月の法話「子を想う親の気持ち」

子を想う親の気持ち

本日は暑い中、ご参拝頂き有難う御座います。

先月は家庭菜園のナスやエンドウ、ズッキーニなどが食卓を飾ってくれました。無農薬で育てた新鮮な野菜を毎日頂く事が出来、この上ない贅沢を味わいましたが、同じ今を共に生きながらも世界には食事を与えてもらえず尊い命を絶っている子供達がいる事を想いますと胸が痛くなります。
 
ユニセフによりますと今や450万人の子供達が保健や栄養など生きる為に必要な最低限のニーズを満たしてもらえず危機にさらされていると言われています。人道支援活動は砂漠に水を撒くようなものだと言われているそうですが、子供達は大人の支援が無ければ生きる事が出来ない環境の中に置かれているのですから、何とかして上げたいと願わずにはいられません。
 
仏教には子供に対する親の気持ちをもとにした教えが幾つも有ります。現存する経典の中で最も古いものとされ、お釈迦様の教えを色濃く伝えていると言われていますスッタニパータには「母が己が独り子を命を懸けて護るように無量の慈しみの心を起こす」とあります。仏教は慈悲の宗教とも言われますが慈しみの心を母親の子に対する気持ちになぞらえて教えているのです。そして、こうした子を想う母の慈しみの気持ちを以て、一切の生きとし生けるものが幸福であれ、安穏であれ、安楽であれと願いなさいと教えているのです。
 
大乗仏教を代表する唯識思想と如来蔵思想とを統合した教えを説く経典とされています「楞伽経」では「仏は一切の生きとし生けるもの全てを子供のように想っている。肉を食べる事は自分の子供を食べるに等しいのであり、一切の肉を食してはならない」と教え、一切の肉食を禁じる根拠として子供を想う親の気持ちを例に掲げています。子を想う親の気持ちはいつの時代になろうとも決して変わる事の無い人類普遍の想いなのではないでしょうか。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が子を想う親の気持ちで満たされる日々となりますようご祈念申し上げます。

本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和4年8月 天清寺







7月の法話「最後の一日を生きる」

人生最後の一日を生きる

本日はご参拝頂き誠に有難う御座います。

先月は異常に暑い日が続き、とても六月とは思えませんでした。今月はどのような天気になるのでしょうか。体調が心配になりますがトマトやキューリー等の家庭菜園も気になります。
 
お釈迦様はこの世をいかに生きるべきかをお説きになられました。言葉を変えますと死に方に対する教えであり、いかに旅立つかをお説きになられたと言えるのではないでしょうか。私達はお釈迦様のように家族と別れ、社会との関係も断って出家する事は出来ませんが、悟りを開かれたお釈迦様に少しでも近づきたいと願うものです。その願いを叶える為の修行法とは一体何でしょうか。
 
在家の私達にとって誰もが出来、しかもお金や時間も必要のない修行法とは早いか遅いかの違いはあっても必ず訪れる自分の死を意識して日々を送る事だと感じます。仏教が教える諸行無常とは死を自覚する事によって始めて理解できるのではないでしょうか。死を正しく自覚できれば自分に与えられた唯一の時間は過去や未来にあるのではなく、今でありこの瞬間なのだと実感できるはずです。こうして諸行無常を体得でき自分の人生は今日が最後になるかも知れないと思う事が出来れば、腹を立てたり不平不満の気持ちは消え失せ、自分を支えてくれている有縁の方々に対して感謝の気持ちが湧いて来るのではないでしょうか。そして、独立自存のものなど何一つないと気付く事が出来、仏教で云う諸法無我の境地に至る事が出来るのです。残された時間が少ないと自覚できれば旅立つ前にお世話になった家族や有縁の方々、更には社会に対して一つでも多くの恩返しがしたいとの願いを抱くに違いありません。その願いを具体的に実践出来れば日々の幸福感や満足感が変り、生きがいを感じて充実した毎日を過ごす事が出来るでしょう。これこそお釈迦様がお説きになられた涅槃寂静の世界なのではないでしょうか。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が人生最後の一日を生きる毎日となりますようご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和4年7月 天清寺







6月の法話「娑婆の世界を生きる」

娑婆の世界を生きる

本日は天気の悪い中、ご参拝頂き誠に有難う御座います。

境内では色とりどりの牡丹が咲き誇り、まるで牡丹園のようですが、満開の美しい姿を堪能できたのは僅か数日でした。作家の林芙美子は「花の命は短くて苦しき事のみ多かりき」とうたっています。
 
仏教では生老病死など四苦八苦に象徴されますように、この世の人生は苦そのものだと説いています。この世を娑婆の世界と表現しますが、娑婆とはサンスクリット語でサハと言い忍耐を意味する言葉です。この世は苦の世界ゆえに忍ぶ事が求められ、直面する苦を一つ一つ乗り超えて行かなければならないと教えているのです。言い換えますと人生とは降り掛かる困難を克服して魂の向上を図る為の修行と言う事が出来ます。それでは修行させてくれる人とは一体誰なのでしょうか。私達は悪縁を断って良縁を結びたいと願うものです。苦労を掛ける人、心配を掛ける人、常に批判し辛く当たる人、意地悪をする人、邪魔をし足手まといになる人等々、悩みや苦しみを与える人は全て悪縁と想いがちですがそうでは有りません。私達に修行の機会を与えてくれている貴重な人なのです。そう気付く事が出来れば恨みや憎しみは消え、逆に感謝の気持ちが湧いて来ます。そして、与えられた修行を無駄にする事なく一日も早く乗り超えて、期待に応えたいとの思いになるのではないでしょうか。このように身に降り掛かる経験一つを取ってみても悪縁にするか良縁にするかは全て自分にあるのです。

人は誰でも健康で伴侶や子孫に恵まれ、経済的にも豊かで何一つ不自由のない生活を求めます。しかし、そうした環境の中では自分を向上させ本当の幸せを味わう事は出来ないのではないでしょうか。兼好法師は「強く猛き者を友とするなかれ」と述べています。弱い立場を経験した事のない人を友とするなと兼好法師は諭しています。人は辛く苦しい困難を経験する事によって強くなり、ものの見方や思いを変え、結果として行動を変えて行くのではないでしょうか。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が貴重なご縁を全て良縁にでき、感謝に満ちた豊かな日々となりますようご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝頂き誠に有難う御座いました。

令和4年6月 天清寺







5月の法話「自力と他力を考える」

自力と他力を考える

本日は貴重なゴールデンウイークの中、ご参拝頂き有難う御座います。

庭の水仙やクロッカス、ムスカリ等が咲き誇り春爛漫の季節となりました。今年も自然の生命力に感動していますが、食糧庫に保存している大豆は春になっても芽を出しません。大豆は生きていないのでしょうか。そうでは有りません。芽を出したくてもその為の条件が整っていないからなのです。大豆を土に植え水を与えると数日もしない内に芽を出しますが、出た芽も温かい所や日の当たる所に置いてやらなければ成長を続ける事は出来ません。このように大豆が芽を出し根を張って成長を続け、花を咲かせて実を付けるためには土や肥料・水・日の光・温度など数多くの条件が必要なのです。こうした条件の事を仏教では縁と表現しています。どんなにすばらしい因があろうとも縁が無ければ結果は生まれないのです。
 
私達の人生も同じ事が言えるのではないでしょうか。幸せになりたい、豊かな暮らしがしたい、立身出世がしたい、健康でいたい等々、私達は多くの夢や希望を抱いています。そして、夢や希望を実現させるために自分で出来る精一杯の努力も惜しみません。しかし、それだけでは夢や希望を実現させる事は出来ません。実現のためには縁が必要なのです。人との出会いだったり、社会や会社の状況だったり、毎日の食生活だったりと、数え切れない程多くの縁がなければ実現しないのです。このように他力が整って始めて自力を発揮する事が出来るのであり、他力に支えられた自力を自覚する事が大切と感じます。しかし、あくまでも自力が基盤であり、自力が無ければ幾ら他力があっても結果は生まれません。やる気のない人に幾ら周りの人が力を貸そうとしても嚙み合う事はなく、前に進む事は出来ません。このようにこの世の全ては自力本願か他力本願かの二者択一の問題ではなく、自力と他力の整合が必要であり、それによって始めて果を生む事が出来るのです。お釈迦様はこうした真理を2500年前に縁起としてお説きになられました。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が多くの縁に支えられ、自力を思う存分発揮出来る日々となりますようご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和4年5月 天清寺







4月の法話「世界の平和を希求する」

世界の平和を希求する

本日はご参拝頂き誠に有難う御座います。4月は入学・進学・就職と若い人達に取って新たな生活が始まる夢と希望に満ちた月です。高齢者の私もテレビや新聞を見ていて毎年元気を頂いて来ましたが、今年は全く違う辛く悲しい想いに駆られています。この地球上で同じ時代を生きている善良なる人々や罪のない子供達が突然戦争に巻き込まれ命と自由を奪われているのです。ウクライナのニュースを見る度に胸が痛くなります。亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。お釈迦様も釈迦族の滅亡を目の当たりにされたと言われていますが、2千4百年経った今でも同じ事を繰り返している事が無念でなりません。
 
先日、本山で臨時の宗議会が開催されました。ウクライナの人々を苦しめている戦争が一刻も早く終結するよう願って、管長猊下ご導師のもと護摩を焚かせて頂きました。そして、宗議会では次のような平和を希求する声明を決議致しました。「如何なる戦争も認めません。許す事は有りません。世界中のあらゆる軍事衝突の即時終結と和平を求め、世界の平和と人類の平安を希求致します。人間の生きる尊厳を損う行為は国家たりと言えども行ってはなりません。私達大乗菩薩集団たる金峰山修験本宗はいかなる理由があろうとも、人命を軽視し武力で一方的に現状を変更しようとする暴力的な行為に抗議し、強く反対の意志を表します。今もなお世界各地で続くテロや武力紛争の現実があり、悲劇が繰り返されています。改めてあらゆる場での暴力の行使を非難すると共に、一刻も早い対話による解決を実現し、世界に平安が訪れるよう強く求めます」
 
戦争は領土や権力への執着により起こります。仏教では戒律の中でも不殺生戒を最も重んじ、人間は勿論のこと生きとし生けるものに対する殺生を固く禁じています。そして、あらゆる執着を離れて涅槃に至る事を説き、共に助け合い支え合って生きる事を教えています。一日も早くウクライナに平和が訪れ、罪なき人々が平穏な日々を取り戻せるよう心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和4年4月 天清寺







3月の法話「因と果を繋ぐ縁」

因と果を繋ぐ縁

本日は道の悪い中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。コロナや豪雪など暗いニュースが続く中、オリンピックで全身全霊を尽くして活躍する選手の姿に感動と勇気を頂きました。大会の進め方で残念な事も多々ありましたが、そんな中にあっても無心に頑張ってくれた選手の方々に称讃と感謝の気持ちを届けたいと思います。
 
お釈迦様は悟りを開かれ「これあるに縁ってかれあり。これ生ずるに縁ってかれ生ず。これなきに縁ってかれなし。これ滅するに縁ってかれ滅す」と縁起説を唱えられ、この世の存在は全て縁によって成り立っていると説かれました。
 
今回のオリンピックを観戦しながら縁起説の因縁について、改めて学ばせて頂きました。先ず最初にもととなる因があり、それに条件としての縁が加わって結果が生まれるのです。選手は少しでも距離を延ばしたい、早く滑りたいと努力を重ね練習に励んでいますが、それだけでは良い結果を生む事は出来ないのではないでしょうか。スキーやスケートを改良し、スーツの素材やデザインを考案して開発するなど、選手個人では出来ないメーカーの協力が必要になります。また、日々の練習を支えるコーチや周囲の人達の支援を始め、リンクの氷やコースの雪の状態など競技環境は勿論の事、当日の気象条件なども競技の結果に大きな影響を与えます。
 
こうして考えますと選手の実力と言う因と競技結果としての成績との間には、それこそ数えきれない程の縁・条件が存在している事に気付かされます。競技を終えた選手がインタビューに応えて、支えてくれた多くの方々に感謝したいと述べているのを聞き感動しました。
 
ただ勝つ事だけを目指して、しかも自分の力で勝ち取ろうと思っていると選手の身体的・精神的な負担は大きくなり、辛く苦しい練習や競技になってしまいます。日々の練習にお釈迦様が説かれた縁起の思想を取り込む事によって、感謝と歓びに満ちた練習や競技ができ、身体的・精神的な負担も軽くなって、結果として良い成績へと繋がる事もあるのではないでしょうか。テレビを見ていてこの事は私達の日常生活にも言える事だと感じました。

これから始まります新しいひと月がお互いにご縁を大切にし合う毎日となり、安楽で豊かな日々となりますよう精進を重ねて参りましょう。

本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和4年3月 天清寺







2月の法話「聞・思・修の教え」

聞・思・修の教え

本日は雪の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。
 
コロナウイルスの感染拡大が続き、感染者の数が毎日のように過去最大を更新しています。自分の身を守り人にうつさないようにする為には、外出を控え自分で出来る感染予防を徹底するしか有りません。お互いに助け合ってこの難局を乗り超えて行きましょう。
 
私達が信仰しています修験道では修行の実践を大切にしています。溺れている人を助ける為には当然の事ですが、先ず自分が泳げなければなりません。仏教では菩薩の修行として自利利他行の実践を説いています。先の例で申しますと泳ぎの力を身に付ける事が自利行になります。その身に付けた泳ぎの能力を活用して、溺れている人を救う行為が利他行と言う事が出来ます。こうした大乗仏教で欠く事の出来ない自利利他行の修行法について、瑜伽行唯識派では聞・思・修の三段階を経て達成すべきだと教えています。
 
聞とは聞く事で、先ず正しい教えを一つでも多く聞く事から始まるとしています。次に思とは幾ら正しい教えを聞いたとしても、それを鵜呑みにするだけでは身に付かないとして、一つ一つの教えを自分なりに思い、納得するまで考えなさいと教えています。そして、最後の修とは分かった理解できたで終わってしまっては本当に自分のものに出来たとは言えず、それを具体的な行動に移して実践し、体得しなければならないと教えています。
 
こうした教えはデジタル化が進み日常生活がますますバーチャル化する現代社会の中で、忘れてはいけない貴重な教えだと感じます。教えに従って修行を実践する為には先ずスタートとなる人の話に耳を傾ける必要が有りますが、正しい教えを聞く為には良き師・善き人と交わる事が求められます。その為には「類は友を呼ぶ」との諺が有りますように、先ず良き師・善き人とご縁を頂ける自分でなければならないのです。
 
これから始まります皆様方の新しいひと月が、良き師・善き人とのご縁で満たされる日々となりますよう心からご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和4年2月 天清寺







1月の法話「深い信仰の一年を目指す」

深い信仰の一年を目指す

 
本日は雪の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。今年こそ新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めが掛かり、皆様方に取りまして実り多い豊かな年となりますよう願いを込め護摩を焚かせて頂きました。
 
私達は魂を磨き霊的向上を図るため肉体を授けて頂きこの世で生活していますが、肉体を授かったが故に食欲や物欲・性欲、睡眠欲など様々な欲望が湧いて参ります。これらを自然的欲望と言うそうですが、自然的欲望は満たされるとそれ以上求める事は有りません。これに対し金銭欲や名誉欲・権威欲など奴隷的欲望と言われるものは際限がないだけでなく、一度自分のものにしますと今度は失いたくないとの不安にかられる事になります。こうした我欲・執着をどのように解決し悟りに至るかを説いているのが仏教なのです。
 
今日は修正会という事で護摩を焚かせて頂きました。ご存じのように護摩は火によって修法致しますが、その前にあらゆるものを水で清めます。火と水を合わせますと火水(かみ)となります。護摩を焚く事は火水(かみ)の世界に身をゆだねる事でもあります。人工的に火と水を合わせますとお湯になります。このお湯に身をゆだねるのが入浴です。入浴の習慣は日本人特有のものではないでしょうか。私達は入浴の前に手足など体をきれいに洗い、清潔にした体で湯船・浴槽に入ります。これはまさしく、この世で得た全てのものを捨て去り、心身を浄化して神仏に身をゆだねる行為そのものと言えるのではないでしょうか。自然の世界で火と水が融合して出来たのが温泉です。私達日本人は温泉に入ると、思わず「極楽、極楽!」と言ってしまいますが、この世で得た物を全て捨て去り、神仏に身をまかせ切った時の気持ちの良さを実感し、自然に出て来る言葉なのです。
 
これから始まります皆様方の新しい一年が毎日の入浴で学ぶ、深い信仰の日々となりますよう心からご祈念申し上げます。
 
本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和4年1月 天清寺





天 清 寺

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