青森市/お寺/金峯山修験本宗/青森別院/天清寺/祈祷/供養/護摩
 
法話履歴一覧

令和元年10月の法話

旅立ちに向けて

旅立ちに向けて

 本日はお忙しい中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

 早いもので今年も実りの秋を迎えました。今年は庭のリンゴが豊作で沢山のリンゴを収穫する事が出来ました。毎年、収穫したリンゴを前に想う事が御座います。リンゴの木でさえ一年でこれだけの具体的な成果を上げているのに、自分は一体何をして来たのだろうかと懺悔と反省の念にかられてしまいます。

70歳を過ぎますと、そろそろ旅立ちの準備として身の回りの整理を始めたり、有終の美を飾れるような老後を歩みたいと願うのは私だけではないと思います。

 日本には「子孫に美田を残さず、徳と誉を残せ」との人生の指針にもなるような諺が御座いますが、仏教では菩薩になる為の最も大切な修行として、徳積みの布施行を説いています。布施と言いますと物やお金を施す財施や教えを説いて人を導く法施、更には恐怖や不安を取り除いて安心を与える無畏施などが御座います。これらの布施を実践する為には財力や特別な能力を必要と致しますが、誰にでもすぐに出来る布施行が御座います。

 雑宝蔵経で説く無財の七施です。具体的には優しいまなざしで対応する眼施、にこやかな笑顔で接する和顔施、思いやりのある優しい言葉を使う愛語施、体を使って奉仕する身施、一心同体となって苦楽を分かち合う心施、電車やバスで座席を譲る床座施、家に泊めたり休憩の場を提供する房舎施の七施です。

どれも簡単にできそうですが毎日実践するとなりますと大変です。先ずは身近な家庭の中で今日一日だけと思って実行し、それを習慣化できるよう精進を重ねたいものです。こうした日々を過ごそうと精進する事こそ仏教徒のあるべき姿であり、旅立ちに向けた最善の日々を送る事になるのではないでしょうか。

これから始まります皆様方の新しいひと月が「無財の七施」実践の日々となりますよう、心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和元年10月天清寺






令和元年9月の法話

仏教的経営のすすめ④

仏教的経営のすすめ④

 本日は貴重な日曜日、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

 暑い日が続いた8月も終わり、秋風を感じる季節になりました。今月も仏教の教えを活かした企業活動についてお話させて頂きます。

この世では学校を卒業しますと就職して働く事が当たり前になっていますが、なぜ働かなければならないのでしょうか。お金が欲しい、地位や名誉・権力を得たいと云うような自分個人の欲望を満たす為に働くのでは有りません。毎日、多くの人達に支えられ生かされているのですから、せめて自分に出来る事で恩返しをし、この世での借りを少しでも減らしたいとの願いから働くのです。このように天職としての仕事であり、神業としての職業なのですから、使命感と誇りを持って働く事が何よりも大切と感じます。

仏教で教えるところの菩薩行の基本とも言えます利他行としての仕事であり社会参加なのです。このように企業活動の生命は利他行の実践に有ります。

 多くの人々や動植物を始め鉱物に至るまで、森羅万象あらゆるものに支えられて私達は生きる事が出来ているのです。生きていると云うより、生かされていると言った方が正しいかも知れません。それを自覚出来れば自ずと慈悲の気持ちや感謝の気持ちが湧き、身の回りに存在するあらゆるものを尊重する事が出来るのではないでしょうか。

このようにこの世では独立自尊のものは何一つ存在しませんが、これを仏教では諸法無我と言っています。この諸法無我の精神を根底に企業活動する事こそ仏教的経営と言えるのではないでしょうか。

 仏教思想の根幹は「無縁の大悲」と「不請の友」と言えるでしょう。無縁の大悲とは他人に対しても家族のように慈悲の心で接する事です。また、不請の友とは誰に対しても友達のように親身になって対応する事です。企業は他人の集合体と言ってもいいでしょうが、一昔前まで日本企業は社員を家族同然に扱って「無縁の大悲」を実践して来ました。また、現代叫ばれているソリューションビジネスは顧客に成り代わって課題を解決しようとする「不請の友」の実践のように思えてなりません。働き改革が叫ばれる今日、最も大切な事は労働時間や賃金と云った表面的な労働条件の見直しにとどまらず、従来、日本企業が持っていた世界に誇れる仕事観や社員観の再興にあるのではないでしょうか。

 本日はご参拝誠に有難う御座いました。

令和元年9月 天清寺






令和元年8月の法話

仏教的経営のすすめ③

仏教的経営のすすめ③

本日は暑い中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

今月も仏教の教えを企業活動に活かした経営についてお話させて頂きます。仏教で説く「不」には否定の不とは違い、超えるとか超越すると言う意図が込められています。超越する事によって、その事象に心を奪われる事無く、冷静に世の中の動きを捉えて判断や行動ができます。時代の流れに逆らったり、社会の動向を無視しますと企業の経営は成り立ちません。そうかと言って流されてしまいますとバブルが崩壊した時、多くの企業が経営不振に陥ったり倒産したように、経営の失敗に繋がります。先を見定めつつ時代の流れを活かして社会のニーズに応えてこそ、般若心経で教える「不」の精神に基づく仏教的経営と言えるのではないでしょうか。

分別は必要ですが、ややもすると不正や隠ぺい・経営の硬直化に繋がる恐れが有ります。そこで、あるがままを素直に見つめる智慧が必要になります。先入観や意思・感情を離れる事によって見えて来る課題や進むべき道を確認し、速やかに対策を取る。こうした具体的な企業活動に繋がる知見こそ、本当の智慧であり「般若」なのではないでしょうか。

暗闇が神仏の光明を呼び寄せると言われますが、困難に出会う事で神仏を求める気持ちを発芽させる事ができます。このように私達の日常生活での神仏の出現は常に地獄のような体験の中であり、苦境のさなかであるように感じます。

我が身に降りかかる困難を神仏に近づく絶好の機会と捉える事が出来れば、苦しみは喜びに変わり、感謝の気持ちが湧いてきます。太陽が燦燦と輝く昼間ではどんなに強い光を用いても輝きを発揮する事は出来ません。同様に順風満帆の時には社員の真価は見えにくいものです。企業の力や社員の力量が明確になるのは不況や経済状態の悪い時なのではないでしょうか。どうしたら自社が良く成るか、儲かるかではなく、どのようにして顧客や社会のお役に立てるかを追い求める事が大切です。こうした求道者とも言える企業活動を忘れなければ、顧客や社会が企業を支え繁栄させてくれるに違いありません。

本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和元年8月天清寺





令和元年7月の法話

続 仏教的経営のすすめ

続 仏教的経営のすすめ

 本日はお忙しい中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

 先月に引き続き仏教の教えを企業活動に活かした経営についてお話しさせて頂きます。企業存続の命は顧客や社会のニーズに応えた商品やサービスを適切な価格で提供する利他行の実践に有ります。その為には社会の変化や顧客のニーズに即応した商品やサービスを開発するための絶えまぬ自利行の実践が不可欠となります。

 この世は諸行無常です。無常だからこそ中小企業やベンチャー企業が大企業や有名企業に成長する事が出来るのです。また、業績も無常であり、良いからと云って慢心していますと悪化の一途を辿る事になります。諸法無我と言われますようにこの世では何一つ孤立して存在するものは御座いません。全て相互に依存し支え合って成り立っています。ですから諸法無我の精神を根底とした共存共栄を目指して活動する事が何より大切なのではないでしょうか。貴社が栄えるから弊社も栄え、貴社が滅びれば弊社も滅びるはこの世の習わしです。諸行無常と諸法無我を会得して始めて涅槃寂静に達する事が出来るのです。こうした大乗仏教の根本思想とも言われます自利利他行の実践としての企業活動を続けていますと、社会的信用を得る事は勿論の事、顧客の集積がなされて経営は安定致します。

 仏教の人間観は無記と言われ、善でも悪でもなく、その両方の可能性を持ち因と縁により結果を生じると教えています。鉄は時間が経ちますと錆びて来ますが、同じ鉄でも鉄道のレールは光り輝いています。このように鉄は自分自身の中に錆びる要素を持っていますが、条件によってはいつまでも光り輝く事が出来ます。知識や地位・名誉・財力等を得た事により自分を見失ってしまう人がいます。精進を重ねて得たそれらを鉄道のレールのように自分を磨く力とし、光り輝く人間になるための大切な要素にしなければなりません。

 企業活動の根底となります仕事が社会の為になる物である事は云うまでも有りませんが、そこで働く人々が働ける喜びとプロとしての誇りを持って働いている事、更にはその労働に見合った報酬が支払われている事など、仕事・労働・報酬の三者が共に清浄でなければなりません。

 世界情勢が大きな不安を抱えている今日、企業経営は一層難しくなって来ています。世界に誇れる高度な技術力に加えて、仏教の教えに基づく日本的経営を実現できれば困難な時代を生き抜く事が出来るのではないでしょうか。

 本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和元年7月 天清寺





 
令和元年6月の法話
仏教的経営のすすめ

仏教的経営のすすめ

 本日は貴重な週末、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。先月末には真夏のように暑い日が続きましたので、庭の牡丹が満開となり彩り豊かな美しい季節を迎えました。

 今回は仏教の教えを企業の経営に照らし合わせて、お話させて頂きます。三世とは過去世・現在世・未来世の事で仏教では過去の因縁によって現在が有り、現在の生き方によって未来が決まると教えています。事業も同様に前期の反省に基づき今期の目標を定め、未来へと繋ぐなど事業の過去・現在・未来を見通して経営できれば、発展の良循環を形成でき事業を成功に導く事が出来ます。

 経営とは経を営むと書きます。経は縦糸を意味していますので事業を継続する為の営みと言う事になります。経営とは大乗仏教の根幹的な教えとも言えます「上求菩提・下化衆生」という菩薩行の実践そのものであり、顧客や社会のニーズに応える商品を開発する為の自利行と、それを施与する事による社会的貢献としての利他行の実践に他ならないのです。このように経営の理念が明確かつ強固であれば社会的信用を得て、事業は必ず成功し繁栄の道を歩むことが出来るでしょう。

 社会に貢献できる企業活動を目指す事は勿論ですが、更にそこで働く社員一人一人の人格向上を促す経営が出来れば、これこそ理想としての仏教的経営を実践したと言えるのではないでしょうか。

 諸行無常と申しますが企業の業績は無常そのものであり、今、良くても必ず悪い時が来ますので、安心してはいけませんし、悪くても努力すれば良くすることが出来ますので諦めたり悲観する事はないのです。今日の現在は明日には過去となり、未来が現在となる等、三世は絶えず入れ替わっていますので三世不二を感じ取り、現状を冷静に見据えて是正・改善する等、社会の変化に対応できる臨機応変な経営努力を忘れてはいけないと感じます。

 令和が日本企業の新たな発展の時代になる事を心よりご祈念申し上げます。

本日はご参拝頂きまして誠に有難う御座いました。

令和元年6月 天清寺





 
令和元年5月の法話
六道化生を目指して

六道化生を目指して

 本日は大型連休の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。今日から元号が令和に変わり、記念すべき日となりました。この記念すべき元号の変更に合わせ、新たな目標をたてられた方も多いのではないでしょうか。

 修験道は神仏混交の宗教ですので供養も致しますが、祈祷も致します。祈祷の際には錫杖を使用致しますが、錫杖は柄の先に付けられた金属製の環を振り鳴らす法具です。環の数によって幾つかの種類が御座いますが、修験道では菩薩の持ち物とされます六環のものを使用します。六環は菩薩の実践徳目とされます六波羅蜜を象徴しています。

 この錫杖の功徳を説いたのが九条錫杖経です。九条からなる短いお経で私達の宗派では朝・夕の勤行の際には必ずお唱えするお経の一つになっています。第五条の六道化生条では「当願衆生 檀波羅蜜 大慈大悲 一切衆生 シラ波羅蜜 大慈悲大悲 一切衆生 セン提波羅蜜 大慈大悲 一切衆生 毘梨耶波羅蜜 大慈大悲 一切衆生 禅那波羅蜜 大慈大悲 一切衆生 般若波羅蜜多 大慈大悲 一切衆生」と云うように六波羅蜜の実践を説き、大きな慈しみと哀れみを全ての人々に注いで行こうと教えています。

 この教えを実践する事は大変難しい事ですが、私達凡人でも取り組みやすいように毎週曜日を決め、テーマを一つに絞って実践してみるのも一つの方法ではないでしょうか。

 例えば月曜日は施しをする日として、笑顔を絶やさず思いやりのある言葉を発す等、自分なりの施しをしてみる。火曜日は規律を守る日として、法定速度を守って車の運転をする。水曜日は忍耐の日として、腹を立てずに過ごしてみる。木曜日は努力の日として、何事にも精一杯取り組んでみる。金曜日は反省の日として、冷静に自分の生活を見つめてみる。土曜日は知恵の日として、愚痴をこぼさず生涯学習に取り組んでみる。

 元号が変わり国や社会も新たな目標に向かって動き出しました。私達も仏教徒の一人として、令和にふさわしい新たな目標に向かって精進を重ねて参りましょう。そうする事によって家庭や社会が変わり、この世に理想の仏国土を実現させる事が出来るのではないでしょうか。

 これから始まります皆様方の新しいひと月が、仏国土建設の一翼を担う毎日となりますようご祈念申し上げます。

 本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

令和元年5月 天清寺






平成31年4月の法話
七仏通戒偈を身に読む

七仏通戒偈を身に読む

 本日はお忙しい中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

 長かった冬も終わり今年も希望に満ちた春の到来となりましたが、5月から使用される令和という新元号の発表が有り、まさに新時代の幕開けとなる歴史に残る春を迎える事になりました。この記念すべき春を機に日々の生活を見直し、仏教の原点に立ち返って、実り多い日々を過ごして参りたいと思います。

 葬式仏教と言われますように仏教は死者を供養する宗教のように思われていますが、そうでは有りません。現在この世を生きている私達の心を救済し、人間としての生きる道を教えてくれるのが仏教なのです。生老病死に象徴されますように、思うように行かず困難の多いこの世の人生を、いかに希望を持って正しく生きるかを教えているのです。

 仏教の教えを守り、この世の人生を正しく生きるとは「七仏通戒偈」の実践に他ならないように感じます。七仏とはお釈迦様とお釈迦様が現れる以前に悟りを開いたと言われる6人の仏の事で、七仏が共通して説いた教えが「七仏通戒偈」なのです。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」という16文字の非常に短いお経で、「もろもろの悪をなさず、ありとあらゆる善を行って自らの心を浄めよ。これが諸仏の教えである」との意味になります。ここで大切なことは人に後ろ指を指されたくないから悪い事をしないとか、名声を得る為に多額の寄付をする等というように、行為の意図が不純であってはならないのです。

 「七仏通戒偈」は現存する最古の経典とされます法句経の中に納められています「言葉を慎み、意を整え、身に不善を作さず。これにより己を清めるべし。かくして聖の説ける道を得ん」との教えがベースになっているのです。このように仏教は「この世の人生をいかに正しく生きるか」を説いています。

 また、仏教は自業自得を説き、いかなる事態が起きようとも責任を他に転嫁せず、原因は我に有りとして「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」事を原則としています。

 新元号の制定にあわせ心機一転を図り、身口意の三業を浄め、宗教家らしい日々を過ごせるよう微力ながら精進を重ねて参りたいと願って止みません。

 本日はご参拝誠に有難う御座いました。

20194月 天清寺





 
平成31年3月の法話
三輪清浄の大切さ

三輪清浄の大切さ

 本日は足元の悪い中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

 早いもので今年も3月に入り、彼岸を迎える月となりましたので、日もだんだん長くなり、春の気配を感じられる季節になりました。

 菩薩に課せられた6つの実践徳目を六波羅蜜と申しますが、その第一番目に掲げられているのが布施行です。布施とは在家の人々が出家行者や寺院・教会に財物などを施す事ですが、皆様が行っています身近な布施行とし致しましては、月参りに来られるお坊さんにお渡しする御布施が御座います。

布施には今お話ししました金銭を施す財施の他に法施や無畏施が有ります。一般的には信者さんからの財施に対し、僧侶は読経による供養や法話などを施し互いにバランスを取っていますが、仏教ではこの財施と法施のやり取りに際し、三輪清浄が大切だと教えています。

 先ず布施する人は私利私欲や特定の目的の為に施してはいけないのです。そして、布施として施す財物が不当に得た物であってはならないのは勿論の事ですが、布施を受ける僧侶は布施を受けるにふさわしい行いをしている事が前提になります。このように施す人と施す施与品、更にはそれを受け取る僧侶が共に清浄でなければ布施本来の行為とはならないと説いているのです。このように三者が全て清浄で始めて布施行は成立するのであり、どれ一つ欠けても布施にはならないと教えています。

 江戸時代に臨済宗再興の祖として活躍した白隠禅師の師僧だった至道無難禅師は「お金は天下の宝である。悪人が持てば人を苦しめ、自分も苦しむ事になるが、善人が持てば人を助け、自分も楽しむ事が出来る」と教えています。そして、「布施する者はたとえ千貫・万貫の布施も三銭と思って出せ。受け取る僧侶は万貫の布施も三銭を思って受け取らなければ、後世は畜生になる事疑い無し」と力説しています。お金が全てを左右するような風潮が強くなりつつある今日、とても重い言葉のように感じられてなりません。

 私も宗教家の末席を汚す者と致しまして、三輪清浄の教えを肝に銘じ日々精進を重ねて参りたいと願っています。

 これから始まります皆様方の新しいひと月が三輪清浄の精神に裏打ちされた布施行の毎日となりますよう心よりご祈念申し上げます。

 本日はご参拝誠に有難う御座いました。

20193月 天清寺

 



 
平成31年2月の法話
随喜の功徳

随喜の功徳

 本日は雪の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。早いもので今年もひと月が過ぎ、2月に入りました。2月3日は節分です。古来、私達の先祖は立春の前日に豆をまいて邪気を払い、歳神様をお迎えして新しい年の平穏と幸多い事を祈って来ました。「福は内、鬼は外」と唱えながら豆まきをするのが一般的ですが、私達の金峯山修験本宗では「福は内、鬼も内」と唱えます。「鬼も内」と唱えて豆まきをするのは、全国でも私達のお寺だけではないでしょうか。

 この世に生を授かった者と致しましては、平穏で幸せな生活は今年一年にとどまらず、生涯続いて欲しいと願うものです。そして、出来る事なら、あの世でも極楽に往生して、永遠に幸せな毎日を過ごしたいと願わずにはいられません。極楽浄土に往生する近道は、何と言いましてもこの世での生活を感謝と奉仕の日々で満たす事ではないでしょうか。支えられ生かされている自分を自覚し、支えてくれている人々に感謝の気持ちを抱くと同時に、その気持ちを具体的な行動に移し、世の為、人の為に働かせて頂く事ではないでしょうか。そうする事で「有難う」の言葉で満たされた日々を送る事が出来、幸せな毎日を過ごす事が出来るのではないでしょうか。

 高齢化社会が進み、街のいたる所にケアハウスが立ち並ぶようになりました。ケアの本来の意味は「悲しみを共にする」事だそうです。ですから喜びや苦しみ、悲しみをお互いに共有し合い、分かち合う所がケアハウスなのです。

 私達仏教徒は七仏通戒偈の教えに従い、善行の実践を目指し、陰徳を積む日々を送りたいと願うものですが、「大智度論」では「善を行ずる者より、それを随喜する者の功徳の方が勝る」と教えています。戦後のベビーブーム世代が70代となり、高齢化社会の課題が叫ばれていますが、与えられた日々をいかに心身ともに健やかに生きるかを私達は問われているように感じます。

 イギリスの科学者ニュートンにちなんだ天体の運行から割り出した「ニュートン時間」が有りますが、これに対しフランスの哲学者ベルクソンの名を取った「ベルクソン時間」が有ります。この時間は同じ時間でもその人の感覚や意識によって短く感じたり、長く感じたりする時間の事です。

 これから始まります皆様方の新しいひと月がケア精神に基づく随喜の日々で満たされ、生きがいに支えられ短く感じられる毎日となりますよう心からご祈念申し上げます。

 本日はご参拝誠に有難う御座いました。

20192月天清寺

 



 
平成31年1月の法話
遺教経を拠り所として

遺教経を拠り所として

 本日は雪の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

 皆様におかれましてはご家族お揃いで新年をお迎えになられた事とお慶び申し上げます。今年は年号が変わるとの事ですので、まさしく新しい門出の年になりますが、この一年が皆様方に取りまして実り多い豊かな年となりますよう、心よりご祈念申し上げ初護摩を焚かせて頂きました。

 1月の事を正月と申しますが、正しくは「修正の月」と申します。新年を迎え一年の目標を心に誓って日々精進を重ねますが時間の経過に伴い、いつしか初心を忘れ目指した目標とは違った道を歩んでしまう事が御座います。そうした自分を見つめ直し、正しい道に導き直すのが1月で「正しく修正する月」と言う事から正月と呼ばれて来ました。

 「一年の計は元旦にあり」と申しますが、年頭に当たり今年一年の計画を立てられた方も多いのではないでしょうか。私は昭和58年にご縁を頂き得度受戒を授けて頂きましたが、この36年間、不思議に思い、納得いかない現実に直面して来ました。仏教と言いますとイコール葬儀と言える位、亡き人の供養こそが仏教の本義のようになっていますが、お釈迦様の教えを勉強すればする程、そうではない事に気付かされます。

 お釈迦様は「生老病死」と言う苦しみ多きこの世の人生をいかに正しく生きるかを説かれました。今年こそ仏教の原点とも言うべきお釈迦様の教えに少しでも近づく事が出来るよう、努力して日々を過ごして参りたいと願っています。

 具体的にはお釈迦様の命日であります毎月15日に最後の教えを纏めた経典と言われています「遺教経」をお唱えして、お釈迦様の教えを肝に銘じ、忘れる事のないよう精進を重ねて参りたいと思っています。特に出家僧侶が守るべき戒めとしてお示しになられた、悟りに至るために守るべき少欲・知足・遠離・精進・不忘念・正定・修智慧・不戯論という8つの徳目をかみしめ、「少欲・知足」を守り、「勤め励む」事を忘れず、日々努力して参りたいと思っています。

 これから始まります皆様方の新しい一年が、お釈迦様の教えに裏打ちされた仏教徒にふさわしい毎日となりますようご祈念申し上げます。

 本日はご参拝誠に有難う御座いました。

20191月 天清寺

 
 



 
平成30年12月の法話
維摩経に学ぶ

維摩経に学ぶ

本日は足元の悪い中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。早いもので今年も残すところ後ひと月足らずとなりました。今年は猛暑に襲われ厳しい夏でした。秋は更に厳しく台風や地震に襲われましたが、皆様方に取りましてはどんな一年でしたでしょうか。

仏教には八万四千とも言われます程、多くの経典が有りますが、在家の人物を主人公にしたお経はただ一つです。「維摩経」といい聖徳太子が仏教を学んだ際、大切なお経として選んだ三つのお経の一つです。また、藤原鎌足も熱心な維摩経の信者で中国の僧・福亮を招いて維摩経の講義をさせたと言われています。このお経の特徴は維摩という在家の大富豪を主人公として、仏教が目指す理想の世界をこの世に実現させるためにはどうすれば良いかを説いています。

般若経典が原理論であるのに対し、維摩経は実践論と言う事が出来ます。光厳童子の問いに対して維摩居士が「直心是れ道場なり」と応え、更に「発行是れ道場なり」と付け加えているように、どのような心を持って生活すれば良いのかを教え、更にはその思いに基づいて具体的な行動を起こし実践する事の大切さを説いています。

それではどのような心構えで毎日を暮らせば良いのでしょうか。維摩経のクライマックスは何と言いましても「不二の精神」に関する問答ではないでしょうか。二人の人がいましても我を超越し心が一つになれば一心同体となる事ができます。この自他不二の精神こそ大乗仏教の根幹を成す精神ではないでしょうか。

今回の地震災害を通じ私達は貴重な多くの体験をさせて頂きました。地震による家屋の損壊という直接的な被害に遭わずとも、全道の人々が停電や断水と言ったライフラインを失い長時間不自由な生活を強いられました。特に高層マンションにお住いの方々は大変なご苦労をされました。そうした中、マンションの隣にある戸建ての人が家の前に「トイレをお使いください。お水もご自由にお持ちください」と看板を出して、マンションの方々にトイレや飲料水を無償で提供したと言うのです。これこそ自他不二の精神を実践された見本ではないでしょうか。

こうして考えて見ますと不幸や受難が一概にマイナス要因ばかりとは言えないように感じます。仏教の不二の精神に裏打ちされた「向こう三軒両隣り」のお付き合いを大切にし、来年もお互いに助け合い支え合って心豊かで安心できる毎日を過ごそうではありませんか。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成3012月天清寺

 



 
平成30年11月の法話
身口意を整える

身口意を整える

本日はお寒い中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。早いもので今年も山では雪が降り始め、タイヤの交換やストーブの用意など冬支度をしなければならない季節になりました。今年の冬は暖冬との予報ですので穏やかな冬であって欲しいと願っています。

仏教徒は得度受戒の際、仏法僧の三宝に帰依し、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒という五戒を守る事を求められますが、これらはいずれも行為に関する戒めにとどまっています。行為がどんなに良くても心の持ちようによっては、その行為が価値を失ってしまう事が有ります。その為、大乗仏教の戒律の基本は十善戒にあるとされています。

十善戒とは不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見を指し、行動に関する不殺生・不偸盗・不邪淫の3つと言動に関する不妄語・不綺語・不悪口・不両舌の4つ、そして心の持ちように関する不貪欲・不瞋恚・不邪見の3つによって構成されています。

言動や行動はその根底にあります想いや願い等、心の有り方次第でその価値を大きく変えてしまいますので、何と言いましても心の問題が最も大切になります。

仏教には8万4千の経典が有ると言われていますが、その教えを一言で表現すると致しますと「この世をいかに正しく生きるか」ではないでしょうか。現存致します最古の経典と言われています法句経に「言葉を慎み、意を整え身に不善を作さず。この三つの形式によりて、己を清むべし。かくして聖の説ける道を得ん」と有りますように、身口意の三業を浄め最終的には自分の心の浄化を図る事ではないでしょうか。その心も無心と呼ばれる、意図的なものではなく、そうしないではいられない、自然にそうなる心を目指すと有ります。毎日の生活の中でこれらの戒律を守り実践し続ける事はとても大変な事ですが、今日一日だけでしたら私達凡人でも実現可能のように感じます。そして、実現できましたら同様に次の日も、今日一日だけと思って精進を重ねて行ければ良いのではないでしょうか。

これから始まります皆様方の新しいひと月が十善戒を守り、仏道修行実践の日々で満たされますよう心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成3011月天清寺

 



 
平成30年10月の法話
万人安楽を祈る

万人安楽を祈る

本日はお忙しい中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

「暑さ寒さも彼岸まで」と申しますが、秋の彼岸も終わり10月に入りました。今年は猛暑で厳しい夏でしたが、これからは一年中で最も過ごしやすい実りの秋を迎えます。彼岸の中日が秋分の日として祝日になっていますので、ご家族お揃いでお墓参りをされた方も多いのではないでしょうか。彼岸にお墓参りをするのは日本独自の習慣です。秋分の日には太陽が真東から上り、真西に沈みますので西方極楽浄土に往生したご先祖様に想いを馳せ、感謝の気持ちを捧げる仏事となりました。

「父の恩は山よりも高く母の恩は海よりも深し」との諺が有ります。自動車や飛行機の無かった時代の人々は生まれた土地で生涯を過ごし、亡くなる方が殆どだったのではないでしょうか。自分が生活する環境の中で高いものと言えば山であり、低いものは海の底だったのでしょう。その最も高い山や低い海の底よりも両親から受けた養育の恩の方が勝ると表現しているのです。昔の人は衣食住どれを取りましても現代とは比較にならない程、質素で余裕の無い生活を強いられていたと思いますが、心は現代人よりはるかに光り輝いていたように感じます。

自分を生み育ててくれた両親やご先祖に対する報恩感謝の気持ちを忘れず供養する事は自分や子孫を大切にする事につながるのではないでしょうか。そして、血のつながっていない人々に対しても同様の気持ちを抱き、行動する事が出来れば世の中は一変するのではないでしょうか。仏教では有縁の供養から無縁の供養へと発展させる事を教えています。

金峯山修験本宗では吉野山の蔵王堂で10月26日午後1時から翌27日に掛けまして「万人安楽とも祈り」と題して、八千枚護摩供を五條管長猊下ご導師のもと厳修致します。場所は違っても時を同じくして共に万人安楽の為に祈りを捧げるのです。これこそ祈りの原点だと感じます。自分に取って最も身近な恩人であります両親に対する感謝の祈りから始めて、次第に祈りの対象を広げて行き、最終的には万人安楽の祈りを目指したいものです。

これから始まります皆様方の新しいひと月が万人安楽の祈りに向かって歩む事の出来る日々となりますようご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成3010月天清寺

 



 
平成30年9月の法話
人生の大仕事

人生の大仕事

本日はご参拝頂きまして誠にありがとうございます。

私事で大変恐縮でございますが、先月、同居していた94歳になる母が亡くなりました。病気一つした事の無かった母でしたので、信じられなく残念でなりませんが、これも与えられた寿命であれば受け入れるしか御座いません。葬儀を依頼した僧侶が長寿を祝って戒名に寿の一字を加えて下さいましたが、子供としまして素直に喜ぶ気持ちになれないのが現状です。晩年、母と一緒に暮らす事ができた別れでさえも、これ程の悲しみを覚えるのですから、子供を亡くし逆縁を体験したご両親のお気持ちは想像を絶するものが有ります。

母が亡くなる数日前に「死に病と金儲けは大変なんだ」と母親が良く言っていた。年老いて入院した姉さんを見舞ったとき「ツルちゃん、まだ大きな仕事が残っているんだ」と言ったので、大きな仕事って何さと聞いたら「死ぬ事さ!」と答えたけど、「本当にそうだよね」と言っていた事を忘れる事ができません。母の旅立ちを見せてもらい、死を迎え、それを受け入れて旅立つ事の大変さを痛感しましたが、それと同時に残された者に取っても近親者を看取る事は人生で最も大きな仕事のように感じました。残念でなりませんが失って始めて親の存在の大きさ、重さ、大切さを体得できました。「親の心子知らず」との諺が有りますが、まさにその通りだと痛感致します。

仏教では故人の亡くなった日を祥月命日と称して追善供養を行うのが習わしになっています。こうした亡き人に対する年回忌の回向供養は、初七日に始まって満中陰と言われる49日まで七日毎に七回行われます。その後は百か日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・三十三回忌です。インドでは満中陰までだった追善供養が中国で百か日・一周忌・三回忌が加わり、更に日本で七回忌以降の供養が加わりました。これら亡き人に対する供養に欠く事のできないのが十三仏です。初七日の不動明王に始まって49日の薬師如来・三十三回忌の虚空蔵菩薩などですが、これらは中国の十王思想に基づく本地仏がベースになっているのです。

残された者に取りまして亡き人に対して出来る事は報恩感謝の気持ちを忘れず、追善供養をさせて頂く事以外に有りません。71歳を過ぎましたので三十三回忌は無理と致しましても、せめて母の十三回忌は無事に済ませて旅立ちたいと願って止みません。これから始まります皆様方の新しいひと月が、亡き先祖に対する報恩感謝の日々となりますよう心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成309月天清寺

 



 
平成30年8月の法話
老い上手を目指して

老い上手を目指して

本日は暑い中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。ぐずついた天気が続いていましたが7月下旬から夏らしい天気になり、ズッキーニやトマトなど家庭菜園の夏野菜が沢山の実を付けてくれています。毎年の事ですが今年も家庭菜園の野菜達から絶えまぬ精進の大切さを教えられました。精進は菩薩に課せられた6種の実践徳目であります六波羅蜜の一つですが、たゆまず仏道を実践すると云う精進こそ、他の5つとは違い実践が難しく最も価値ある徳目のように感じます。たとえどんな環境に置かれようとも、与えられた環境を素直に受け入れ、その中で今日・只今を精一杯努力して生きる事は、この世に生きる私達に取りましても、忘れてはいけない大切な目標ではないでしょうか。

「阿含経」では「過去を追うな。未来を願うな。過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ至っていない。現在の状況をそれぞれ良く観察し明らかに見よ。そして、今なすべき事を努力してなせ」と教えています。今回の母の病気に接し、老いや病をこれまでとは違う、新しい生き方を始める契機に出来るかどうかを問われているように感じます。お釈迦様の最後の教えと言われます「涅槃経」では病気に掛かった人こそが仏になれると説いています。また、日蓮上人は「病気で悩む事によって、仏道心が芽生える」と語っています。

病気になった事で母自身も多くの貴重な体験をしたに違いありませんが、病に伏す母の姿を見せて頂き、私も多くの事を学び、日々の生活を見直すと共にこれまで抱いていた想いを変える事が出来ました。人生ドラマがテレビや映画のドラマと根本的に違う所は、一方的な主役と共演者ではなく、互いに主役でありながら共演者でもある点ではないでしょうか。そうであれば今回の母の病は単に母の事にとどまらず、私が自分自身の事として主体的に捉えなければならないと感じるのです。

私達凡人はとかく年老いて来ると、まだ多くの事が出来るにもかかわらず、感謝して励む事をせず、もう出来なくなったと一つか二つの事に失望し気力を無くしてしまったりするのです。この「まだ」と「もう」を上手に使い分け、まだ出来る事に視点を当てながら、明るく日々を送って上手に老いようではありませんか。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成308月天清寺

 


 

平成30年7月の法話
老いを輝いて生きる

老いを輝いて生きる

本日は貴重な日曜日、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。6月は天候不順で植えた野菜の成長が悪く困りましたので、今月は夏らしい暑い日が続いて欲しいと願っています。

先月は仏教の教えの中でも最も基本とされます「生老病死」の中から病についてお話させて頂きましたので、今月は老いについてお話させて頂きます。人によって違うでしょうが、老いはいつから始まるのでしょうか。

生まれたばかりの赤ちゃんが直ぐに歩けるようになる訳では有りません。ハイハイに始まり、物に捕まっての伝え歩きを経て、ようやく二本の足で立ち、歩いたり走ったり出来るようになるのです。

こうした成長の段階とは反対に年を取って来ますと、それまで自由に歩いたり走ったり出来ていたのに、杖をついたり、物に捕まらなければ歩けなくなります。生物としてごく自然で当たり前の事なのですが、私達はそれを素直に受け入れる事が出来ず、意のままに動かなくなった手足や体に不平不満を抱き悩みいらだつのです。健康を維持するためには心身の調和が大切で、年と共に変化する体に合わせ、気持ちや想いを変える必要が有ります。しかし、私達凡人は体の変化に気付かず、いつまでも若い時の自分に執着心を燃やし、体を動かそうと悩み苦しんでいるのです。

年老いて今迄出来た事が出来なくなったり、自分一人では日常生活が不自由になった時、何を感じどう思うのでしょうか。「これまで何不自由なく過ごして来た毎日がいかに有難い日々であったのか」と気付き、手を合わせて感謝する事が出来れば、その時から生活は一変し輝いた毎日が始まるのではないでしょうか。高齢者がこうした思いに至れば高齢者施設が寺院や教会より強いパワーを発する場と化し、地域の浄化と繁栄に大きな役割を果たす事が出来るのではないでしょうか。高齢化社会の到来は日本中を感謝の気持ちで満たし、天地を浄化する絶好の機会のように感じます。

本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

平成307月天清寺

 



 
平成30年6月の法話
終活ならぬ病活

終活ならぬ病活

本日はお忙しい中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

6月に入り新緑も一段と進み、一年中で最もパワーの感じる季節となりました。寸刻を惜しんで成長を続ける草木を見ていますと、こうしてはいられないと思う人も多いのではないでしょうか。

私事で大変恐縮で御座いますが、先月、94歳になる母が黄疸の症状が出て急遽入院となりました。94歳になるまで大病の経験がなく、入院するのは勿論の事、点滴を受けるのも各種検査を受けるのも始めての事ばかりで、本人は戸惑う事が多かったようですが、有難い事に二週間の入院で無事退院でき自宅に戻る事が出来ました。

仏教ではこの世の人生で避け難い苦しみとして「生老病死」の教えを説いています。4つの苦しみの中で、病いだけは他の3つの苦しみとは違い体験できる人とそうでない人がいます。今回、病いに伏す母の姿を見せて頂き、今まで思ってもみなかった様々な事を学ばせて頂いた気が致します。母も生まれて始めて入院を体験し、病いと戦う事や看護に当たって下さる医師団の方々の温かい対応に接し、多くの事を学んだのではないでしょうか。

この度の母の入院を通じ、お互いに健康だった時には気付かなかった事やないがしろにしていた事などを一つ一つ気付かせて頂き、今迄の生活を見直す大切な機会を与えて頂いたと感じます。こうして考えて見ますと病気は単なる苦しみとしての病いではなく、病気になった人は勿論ですが、周囲の人々にも成長の機会を与えてくれていると痛感致します。残された人に迷惑を掛けたくないとの思いから終活に取り組む人が多くなりましたが、いつ襲ってくるか分からない病気やケガに対処する為の病活も大切なのではないでしょうか。たとえ自分は健康でも同居する家族が病気やケガをすると自分の生活も大きく変化せざるを得ない事を自覚し、その時の為に心や生活の備えをしておく事が大切なのではないでしょうか。

これから始まります皆様方の新しいひと月が病活に裏打ちされた毎日となり、安心と家族愛で満たされた日々となりますようご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成306月天清寺

 



 
平成30年5月の法話
人を見て法を説く

人を見て法を説く

本日はお忙しい中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

今年のゴールデンウイークは1日と2日を休みますと9連休になりますので、ご家族お揃いで海外旅行を計画された方も多いのではないでしょうか。

お釈迦様は衆生一人ひとりの性格や能力、置かれている立場などを念頭に、その人にふさわしい方法や内容で教えを説いたと言われています。これが対機説法と呼ばれ、「人を見て法を説く」と言われるようになったのです。仏教には八万四千におよぶ膨大なお経が有ると言われますが、対機説法で教えを説いた一つひとつがお経であり、お経の数が教えを説いて聞かせた衆生の数とも言えるのではないでしょうか。

私達凡人はお釈迦様と違い、とかく自分の立場や能力を基に言葉を発してしまいます。既に理解し察知している人に対し、知らないだろう、気付いていないだろうと思って言葉を発してしまいますと、感謝の言葉ではなく、反発の言葉が返って来ます。それは、相手の事を理解せず自分の一方的な判断で言葉を発してしまったからではないでしょうか。それなのに「相手の事を思って忠告して上げたのに反発された」と相手を悪者にし、自分を被害者だと思い込んでしまいます。こうした事は何も言葉だけに限った事では有りません。物を施したり、人を助ける場合にも同じ事が言えるのではないでしょうか。食事を終えたばかりの時に沢山の御馳走を出されても困りますし、健康な時に薬を頂いても困ります。また、胃の調子が悪い時に風邪薬や血圧の薬を頂いても有難くないのです。そんな事をする訳がないと言いたい所ですが、私達凡人は同様の事を日常生活の中で数多くしてしまっているのです。ただ、相手が黙って受け入れてくれているから気付かないだけなのです。

仏教では無知・無明ほど罪深いものはないと教えています。たとえどんなに熟慮致しましても、所詮自分の経験や想いに基づいて行っている事ですから、相手の立場に成り切る事は出来ませんが、少しでも近づく努力をして言葉や行動を整える事が出来れば、私達の生活はもっと潤いのある明るいものになるのではないでしょうか。

これから始まります皆様方の新しいひと月が人を見て法を説ける日々となり、ご縁ある人々から感謝され、実りの多い毎日となりますよう心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成305月天清寺

 



 
平成30年4月の法話
大空に羽ばたく

大空に羽ばたく

本日はお忙しい中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

4月に入り一段と温かくなって参りました。庭のスイセンやチューリップも芽を出し始め、春の訪れを感じられるようになりました。4月8日はお釈迦様の生まれた日とされ、各地でお釈迦様の誕生を祝って花祭りが行われています。

今日は仏教の教えの中でも平易で身近に感じられ、しかも日常生活にすぐ役立てる事の出来る四恩の教えについてお話させて頂きます。

四恩の教えにもいろいろ有りますが「心地観経」では私達の生活に欠かせない代表的な恩として「父母の恩」「衆生の恩」「国王の恩」「三宝の恩」の4つを説いています。そして、「父母の恩」では父親の慈恩と母親の悲恩があると説き、二つを合わせた慈悲こそが父母の恩であると教えています。この世に生を授かった者に取りまして両親は自分の生命の根幹でもあり、最も身近な存在であります。言葉を変えますと人生の大恩人と言わなければなりませんが、子供としてそれに匹敵するだけの恩返しが出来ているだろうかと反省させられますのは私一人ではないと思います。

仏教で言うところの親に対する子供の恩返しの見本とも言えますのが目連尊者ではないでしょうか。餓鬼道に落ち苦しんでいる亡き母を救おうと、目連尊者は多くの僧を呼び集め読経供養をして母を救ったと言われています。これが盂蘭盆会の始まりとなりお盆のお墓参りに繋がったと言われています。

二つ目の「衆生の恩」ですが仏教では全ての物は互いに因縁によって結ばれ支えられていると説き、人間は自分一人では決して生きていけるものではないと教えています。衆生とは人間に限った事ではなく、この世に存在する生きとし生けるもの一切を指し、自分の命を支え、生活を支えてくれている有縁無縁一切を指しています。衣食住は勿論の事、お天道様や空気・水など毎日の生活に欠く事の出来ない大切なものに対し感謝の気持ちを抱き、手を合わせているでしょうか。なかなかそうはいかないのが私達凡夫の毎日ではないでしょうか。、

恩を感じる感度の違いがその人の人生を変えると言われていますし、恩を忘れる者は「羽を失った鳥と同じで二度と空を飛ぶ事が出来ない」等とも言われています。

これから始まります皆様方の新しいひと月が両親は勿論の事、自分の毎日を支えてくれている衆生に対する報恩感謝の日々で満たされ、社会的信用を得て大空に羽ばたける毎日となりますようご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成304月天清寺

 



 
平成30年3月の法話
最善の運命を歩む

最善の運命を歩む

本日はお忙しい中ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。先日テレビを見ていましたら、宗教の時間で「心の時代」という番組が有りました。お釈迦様が亡くなる前にお説きになった最後の経典「涅槃経」がテーマでした。そこでは八正道を守り菩提心を起こして、善根を積む事を教えていました。それで今日は善根を積むお話しをしたいと思います。天の命を自分の体に宿す。これが宿命です。この宿命は変える事が出来ません。この自分にあてがわれた命をどのように運ぶかが運命です。運命は宿命と違って自分の努力で幾らでも変える事が出来ます。この命を最善の方法で運ぶ為にはどうすれば良いのでしょうか。人生が思うように行かない時、私達は姓名判断をしてもらい改名したり、印鑑を変え印相を改善してみたり、更には家を改築して家相を改善したりします。これらも自分の運命をいかに良くするかの努力ですが、最善の方法は陰徳を積む事に尽きます。

中国の明の時代に袁了凡(えんのりょうぼん)と言う人がいました。代々医者の家に生まれ、両親の希望も有り、家業を継ぐべく医学の勉強をしていました。そこへ仙人が訪ねて来て将来を占うと言うのです。自分は医者になる事にしているので占う必要は無いと断ると、仙人は「とんでもない、お前は官吏になって破格の立身出世をする運命だ」と言うのです。信じようとしない了凡にこれまでの了凡にしか分からない様々な出来事を言い当て、ついに信じさせてしまいました。了凡は仙人が予言した通り官吏の試験に合格し破格の出世をし始めました。ある時、了凡が座禅をしている所に偉いお坊さんが来て、一緒に座禅する事になりました。悟りを開いた迷いの無い態度に感動した高僧はどこで修行したのか尋ねました。了凡は仙人との事を伝え「自分の一生は既に決まっているので、今更悩む事も心配する事も無いのだ」と答えました。それを聞いて高僧は「何と愚かな事か。それでは何の為に生きているのだ」と了凡を叱りました。そして、陰徳を積めば運命は幾らでも変えられる事を教えました。

運命論者になってしまっていた自分を反省した了凡は陰徳録というノートを作って、毎日自分が行った善行を書き留め点数を付け始めました。困っている人を助けたら何点、死にそうな動物を助けたら何点、病気の人を治したら何点と具体的に行為に点数を付け、毎日寝る前に一日の総合点を出して、明日はもっと多くの点数が取れるようにと努力したのです。そうすると仙人の予言が狂い始めたのです。次々と昇給するスピードが速くなり、良い方へ良い方へと狂い始めたのです。破格の出世はしても子宝には恵まれず57歳の若さで死ぬと予言されていたにもかかわらず、子宝にも恵まれ86歳の長寿を全うしたのです。私達も了凡のように善行や徳を積む事に精進し、運命を最善の方向へと導いて幸福を求めるべきと感じます。

皆様方のこれから始まる新しいひと月が陰徳積みの日々となり、最善の運命を歩む日々で有ります様、心からご祈念申し上げます。

平成303月天清寺

 



 
平成30年2月の法話
不二の精神に立ちかえる

不二の精神に立ちかえる

本日は雪の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

昨年の10月読売新聞社が全国の孤立死を調査し新聞で発表しました。それによりますと平成28年に誰にも看取られず自宅で亡くなった一人暮らしの人は19道県と東京23区で17000人を超えていると言うのです。47都道府県別で考えて見ますと46000人にもなります。戦後間もない昭和28年には自宅死が88%で病院死はわずか12%でした。それが52年後の平成20年では病院死が79%で自宅死は12%と逆転しているのです。昭和28年当時は三世代家族も多い時代で、90%近い人が自宅で家族に看取られて亡くなっていたのです。

文明が進み生活水準の高くなった今日、人生で最も大切と思える看取りの場面が孤立死と言う悲しく寂しいものになってしまったのはなぜでしょうか。

厚生労働省が発表した自殺白書によりますと平成28年の国内での自殺者は21897人で15歳から39歳までの若者が第一位を占め、先進国の中で突出して高い数値を示しているのです。19歳以下では自殺の原因が学業不振や進路の悩みなど学校問題が主になっているのですが、20歳以上になりますと職場の人間関係や仕事疲れ、失業や生活苦など社会的な不安が主要な原因になっています。世界第三位の経済大国日本で若者が夢や希望を失い、生きる望みを無くして自ら命を絶たなければならないのはなぜでしょうか。

聖徳太子の三経義疏の一つに「維摩経」が有ります。維摩経では大切な教えとして不二の精神を説いています。私達人間は多くの人々に支えられ生きる事が出来ているのです。この自他不二の事実を自覚する事によって「自分も世の為人の為に何かしなくては」との思いが湧き起ります。このように自利利他を主体的に実現したいとの願いを抱く事が大乗仏教の最も大切な教えのように思えます。言い換えますと立場を変え、その人に成り切って身口意を整える事が大切なのです。日常生活の中でご縁を頂いた人の苦しみや痛みを自分の苦しみや痛みとして感じる事が出来るかどうかを私達は問われています。

私達凡人はとかく自分の願いや喜びを叶える為に執着心を燃やしますが、困っている人や苦しんでいる人、ご縁を頂いた人の為にお金や時間・体を使う事が出来れば、その結果、得られる喜びや満足感は何倍にも増すのではないでしょうか。

これから始まります皆様方の新しいひと月が自他不二の精神に裏打ちされた日々となり、ご縁を頂いた人々と苦楽を共に歩める毎日になりますよう心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝、誠に有難う御座いました。

平成302月天清寺

 



 
平成30年1月の法話
一隅を照らす

一隅を照らす

本日は雪の中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

皆様、ご家族お揃いで新年を迎えられました事、心よりお慶び申し上げます。

1月の事を正月と申します。新年を迎え一年の目標を心に誓い日々精進を重ねますが、時間の経過に伴い、いつしか初心を忘れ目指した目標とは違った道を歩んでしまう事が有ります。そうした自分を見つめ直し、正しい道に導き直すのが1月で、正しく修正する月と言う事から正月と呼ばれて来ました。

それでは新たなこの一年をどのような目標に向かって日々を過ごせば良いのでしょうか。天台宗を開いた伝教大師最澄は著書「山家学生式」の冒頭で「一隅を照らす」と述べています。暗い夜道を歩く人に取って、明かりは安心と希望を与えてくれる救世主です。この世に生を受けたからには自分の置かれている立場で一つでも二つでも人様の為になる事をしたいものです。身近な所では家庭の中で、更には職場で、もっと言えば社会の中で存在感の有る、いわば求められる人間となって一隅を照らせる日々を送りたいものです。

一隅を照らすと致しましても照らす光の強さは、どうすれば変えられるのでしょうか。照明器具であれば60ワットを100ワットに取り換えると自ずと照度が変わり、あたりを照らす明るさをいとも簡単に変えることが出来ますが、伝教大師がお説きになった「一隅を照らす」明るさを変えるにはどうすれば良いのでしょうか。

金峯山修験本宗では五條管長猊下のご発願のもと、一昨年から「八千枚護摩供とも祈り」の修行を実践致しています。個人主義がはびこる今の時代だからこそ、自分の事はさて置き、とにかく人様が良くなるように祈る、更には世界の人々が幸せになるように祈っているのです。今、最も必要とされている事は一人ひとりが自分の置かれている立場で「一隅を照らす」事ではないでしょうか。

これから始まります皆様方の新しい一年が「一隅を照らす」日々で満たされ、実り多い一年になりますよう心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成301月天清寺

 



 
平成29年12月の法話

不二の精神に立ちかえる

祈りの原点に返る

本日はお寒い中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

今年も早いもので残すところ後、ひと月足らずとなりました。皆様に取りまして今年一年、どんな年でしたでしょうか。

11月25日から26日に掛けまして、奈良県は吉野山の本山に御座います蔵王堂に置きまして、管長猊下ご発願の「八千枚護摩供とも祈り」の行が厳修されました。昨年に引き続きの2座目の修行ですが、私も微力ながら助法を務めさせて頂きたく帰山致しました。25日午後1時の開闢座に始まり、26日午後1時の結願座まで3時間毎に護摩を焚き、全国から寄せられた2万本を超える護摩木を不断の浄火に投じたのです。その護摩木には「万人安楽」の記載が有り、管長猊下が浄衣を身にまとい断食断水の中、一本一本心を込め願いを読み上げながら浄火に投じたのです。私は光栄にもこの貴重なご修行に同席させて頂き、お不動様のご真言を一心に唱えさせて頂きました。

祈りは一つになり蔵王堂を満たすと共に全国で場所を異にしながらも「万人安楽」の祈りを捧げている人達の祈りと一丸となり、天界に届いたように感じました。

祈りの力につきましては以前に申し上げましたが、自分の事はさて置き、人の為に祈る、人様が良くなるように祈る。これこそ祈りの原点ではないでしょうか。私達凡人はとかく自分の願いを叶えて欲しいと神仏に祈ってしまいますが、正しい道を歩んでさえいれば、自分の事は祈らずとも神仏が叶えて下さるのです。

自分を浄化する最善の方法は人の為に祈る事ではないでしょうか。そうした気持ちを忘れず日々生活する事の大切さを痛感致しました。今回の管長猊下ご発願の「とも祈りの行」は私達に祈りの原点に立ち返る事を教えて下さいました。それはまさしく信仰の原点でもあるように感じます。来年こそ人の為に祈る日々を過ごして参りたいと願って止みません。

皆様方がご家族お揃いで良いお歳をお迎え出来ますよう心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成2912月天清寺

 



 
平成29年11月の法話
神仏に身をゆだねる

神仏に身をゆだねる

本日は寒い中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

早いもので今年も残すところ後、少しとなりました。自然は実りの秋を終え、冬への備えを始めていますが、皆様に取りまして今年はどんな年でしたでしょうか。

私達は修行の為に肉体を授けて頂き、この世で生活していますが、肉体を持った事により食欲や性欲、睡眠欲など様々な欲望が尽きる事無く湧いてきます。これらを自然的欲望と言うそうですが、この自然的欲望は満たされてしまいますと、それ以上を求める事は苦痛になり、際限なく執着し続ける事は有りません。

これに対し金銭欲や名誉欲・権威欲などは際限なく、幾らでも欲しくなります。これらを奴隷的欲望と言います。私達は金銭や権威を一度手にしてしまいますと満足するどころか、更に執着心が強くなり、今度は失いたくないとの不安にかられます。

この世での修行で最も難解と言えます、こうした我欲や執着心をどのように解決すれば良いのでしょうか。

今日は月例祭と言う事で護摩を焚かせて頂きました。ご存知のように護摩は火によって修法致しますが、その前にあらゆる物を水で清めます。火と水を合わせますと火水(かみ)になります。護摩を焚く事は火水の世界に心身をゆだねる事でもあります。

人工的に火と水を合わせますとお湯になります。このお湯に身をゆだねるのが入浴です。入浴の習慣は日本人特有のものではないでしょうか。私達は入浴の前に手足など体をきれいに洗い、清潔にした体で湯舟・浴槽に入ります。これはまさしく、この世で得た全ての物を捨てて、身も心も火水にゆだねた姿なのです。入浴は生まれた時のように何も持たず全てを神にゆだねる行為そのもののように感じます。

自然の中で火と水が融合しますと温泉になります。私達日本人は温泉に入りますと思わず「アー、極楽、極楽」と言ってしまいます。この世で得た物、全てを捨て去り、神仏に身をまかせた時の気持ちの良さを実感し、思わず口にする言葉なのではないでしょうか。

私達はこの世で得た物を失いたくないとの思いにかられ不安を抱き、とかく神仏にすがる生活をしがちですが、毎日の入浴を通じて我欲から離れる事を学び、感謝の気持ちを持つようにしたいものです。

これから始まります皆様方の新しいひと月が、神仏に身をまかせた深い信仰の日々で満たされますよう心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

                      平成2911月天清寺  
 



 
平成29年10月の法話
神仏に信じて頂ける日々

神仏に信じて頂ける日々

本日はご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

私達のこの世の人生は過去の因縁が80%、現世の因縁20%で出来ていると言われています。これは自分の輪廻転生の因縁ですが、もう一つ両親やご先祖様が作った家系の因縁が有ります。私達はこの自分で作った輪廻転生の因縁と家系の因縁を背負ってこの世を生きているのです。

仕事の事、家庭の事、健康上の事など、この世では思うように行かない事ばかりですが、幸いなことに私達の身に振りかかって来るさまざまな困難、仏教の言葉を借りますとカルマと申しますが、重すぎて背負いきれないカルマに巻き込まれる事は御座いませんし、他人のカルマを背負う事も有りません。

神仏は私達の力に合わせ、乗り越えるにふさわしい試練を与えて下さっているのです。この貴重な体験を通して、私達は自分を浄化し、魂の向上を図る事が出来るのです。

この世で得たお金や社会的地位・名誉、更には家・屋敷など何一つあの世に持って行く事は出来ません。あの世にまで付いて回るものは自分が成した生前の行いやどんな気持ちで過ごしたかなのです。

私達の波長が高まり、魂が輝きを増すのは有難いと思う感謝の気持ちや喜んだり、人を愛したり、慈しみの気持ちを忘れず他をいたわる等プラスの感情を抱いた時なのです。反対に波長が下がり、魂が輝きを失うのは恨みや憎しみ、妬みや苦しみ等マイナスの感情を持った時です。

私達は良く神仏を信じるとか信じないとか申しますが、そうではなく神仏に信じて頂ける自分かどうかが問題のように感じます。

これから始まります皆様方の新しいひと月が、神仏に信じて頂ける毎日となり、魂の輝きをより一層強く出来る日々となりますよう心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成2910月 天清寺

 
 



 
平成29年9月の法話
慈悲喜捨

慈悲喜捨

本日はお忙しい中、ご参拝頂きまして誠に有難う御座います。

今年の夏は暑い日が続き、札幌も暮らしづらくなって来たと思っていましたが、先月下旬に所要で九州は大分に行き、暑さの厳しいのに驚かされました。九州の暑さは北海道とは比べものにならない位いで、南国の厳しさを痛感させられた3日間でした。

仏教に「慈悲喜捨」と言う教えが有ります。文字の通りに解釈しますと、慈しみを持って悲しみや喜びを捨てる意味になりますが、そうではありません。

「慈悲喜捨」とは慈・悲・喜・捨の四つの無量な知恵の事で、四無量心と呼ばれている教えなのです。

「慈」とは生あるものに対して慈しみの心を持って、楽を与える与楽の知恵をさし、「悲」とは哀れみの心を持って、他人の苦しみや悲しみを解決して取り除いてあげる抜苦の知恵なのです。

「喜」とは有縁の人々の喜びを妬んだり、羨んだりする事なく、素直に自分の喜びとしてとらえ、一緒になって喜んであげる同情の知恵をさし、「捨」とは好き嫌いなど自分の感情や先入観・潜在意識などに左右される事なく、囚われの気持ち、分別の気持ちを捨てる知恵なのです。

この知恵の事を分別に囚われない、分別を超越した知恵と言う事で無分別智と呼んでいます。

私達は「慈」と「悲」を統合した慈悲と言う言葉を良く使いますが、慈悲の語源はアヌカンパーといい、アヌは「何かと共に」を意味し、カンパーは「震える」と言う意味なのです。ですからアヌカンパーとは共振するとか、共感すると言う意味になりますから、慈悲とは相手と心を一つにして共感する事なのです。

「あの人は慈悲深い」と表現する事がありますが、家族は勿論の事、仕事で一緒になる職場の人達や最近では交流が希薄になったと言われる近所の人など、自分の人生ドラマに登場してくれている有縁の人々に対し、常に慈悲の気持ちを忘れず接する事ができれば、今の世の中で最も難しいとされる人間関係で悩む事も無く、明るく楽しい最良の日々を過ごせるのではないでしょうか。

これから始まります皆様方の新しいひと月が、慈悲の気持ちで満たされた日々となり、有縁の人々から「慈悲深い人」と言われる毎日になりますよう、心からご祈念申し上げます。

本日はご参拝誠に有難う御座いました。

平成299月 天清寺

 

 
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